阪神淡路大地震から20年2015年01月17日 18時46分55秒

阪神淡路大地震から20年経った。

本当は今日、これを書こうかどうか迷ったのだけど、一応書いておこうと思った。思い出して列記。

当時私は北大阪は、千里ニュータウンの古い11階建てのマンションに1人で住んでいた。

あの日、前日までの連休を使って長野あたりまで2泊3日でスキーに行ってた。向こうも帰り道もすごい大雪で、家に帰り着いたのは日付変更線を超えてから。すなわち17日深夜だった。

そして朝、疲れているはずにもかかわらず、地震が起きる1分くらい前に目が覚めた。で、まだ早そうなのでまた寝ようかと思っている時に、下から突き上げられるような揺れが来た。

その時、とっさに真横にあった食卓の下に潜り込んだら、その後ものすごい揺れが来た。かなり長いこと揺れていたと思う。揺れている間は何も考えられなくて、とにかく頭を抱えて揺れが収まるのを待つしかなかった。

大きな揺れが収まっても、まだずっと揺れている感じが残ってた。どうもマンションがずっと振れているらしい。

机の下から出てまず部屋の中の惨状に愕然とした。あまりにむちゃくちゃなのでもう何をしたらいいかわからなくなってすぐ寝てしまった。

しばらくして寒さで目が覚めた。何時かは覚えてない。ベランダの窓は鍵をかけて閉めていたにもかかわらず、それが揺れで強引にこじ開けられて窓が全開だった。

今度は部屋の状況をちゃんと確認すると同時に、この地震がどれくらいの規模だったのかを確認するためにTVを付けた。

砂嵐。電気は来ているが画像が出ない。
TVは29型で50キロを超えるブラウン管TVであるにもかかわらず大きく動いてた。今から思えばよくラックの上から落ちてなかったもんだと思うが、いずれにせよ、大きく動いたせいでアンテナ線が外れていた。で、それをつないで写った映像にまた愕然とした。

まだ砂嵐か?思ったくらいの惨状。その後も次々と映し出される神戸周辺の様子にまさしく絶句した。(当時勤めていた)会社にはそちら方面に住んでいる友人もいたのでその安否が心配だった。

部屋の中を再確認。
TVを含めステレオは大きく移動している。枕元においてた大きなスピーカーが枕の上に倒れていて、そこにおいてあった目覚まし時計が全壊していた。もし、最初の揺れで机の下に潜り込んでなかったら、そのスピーカーは私の頭の上に落ちてきて即死だっただろう。1本10キロ*2本。ぞっとする。

その他の物も大きく動いていた物も多いが、一方で不安定なはずの細い一輪挿しが全く動かず立っていたのには驚いた。どうも、最初の突き上げ以外はある特定の方向だけに揺れ、それに逆らわないようにあったものはそのようになったようである。

会社に行こうかどうか迷うが、どうも電車は動いていないらしい。会社に電話しようにも全くつながらない。会社どころかどこにも。電話が通じたのは一体いつだったろうか、とにかく当日は休み。

マンションは、エレベーターが止まっていた。この状況がこのあと1週間以上続いたと思う。
で、外に出るとなんか足元がおかしいと思ったら、マンションの片側の地面がせり上がり、段差ができていた。5センチほどか。、マンション自身も傾いていたかもしれない。

大阪は神戸に比べれば比較的被害は少なかったが、庄内から千里〜高槻に至る地層のライン上ではそこそこ被害が出たようだ。千里には実家もあるが、隣の家の石灯籠の上の部分が飛んできて小屋の屋根が抜けたと言ってた。

友人は会社も含め皆無事だった。会社の人はその友人も含め、神戸に近い人もみな無事だったのは幸いだった。
宝塚に住んでいた友人は、家の前後の筋の家は倒壊したが、住んでいる筋だけはなんともなかったそうだ。これもおそらく地層の加減なのだろう。それでも電気・ガス・水道がダメみたいで、特にお風呂が入れないと嘆いていた。当時は大阪駅前ビルの地下に銭湯があったので、会社帰りに入って帰ると言ってた。

会社で、その後全員に避難袋が配布された。懐中電灯、ラジオ、笛などが入っていた。ヘルメットもあった。それは未だに家にある。ずっと中に入れる食料や水を交換していたが、最近ご無沙汰している。

当時も、関東圏は大地震がいつ起こっても不思議はないと言われていたが、大阪、関西ではそんなことはないだろうと思い込んでた。(スキーにも一緒に行ってた)土木関係の友人曰く、「そんな保証はどこにもない」といっていたが、まさしくそれが的中してしまったわけである。

この後、間接的にではあるが新潟の2地震に被災した。新潟中越地震では田舎の家の壁にヒビが入ったり、中越沖地震では集落内で何件かの家が倒壊、隣の家を始め、倒壊せずとも住めなくなって取り壊された家が多数、ガスが1ヶ月以上も通じなくて困ったとか、道路の通行止めが1年以上続いたとか、支援物資の菓子パン食べてて親戚が体調壊したとかあった。

そうそう、うちは東電柏崎原発に歩いていけるほどの近距離である。何かあったら即アウトである。中越地震では火災も発生した。「原発が安全」等と言っていたのは原子力の何たるかを知らない無知な連中であるが、田舎の経済的切迫はそれを度外視してでも原発を受け入れなければならない状況であった。そもそも、ほんとうに安全なら、過疎のど田舎に作るよりも効率のよい都会に作るはずである。「何かあったら危ない」は最初から、関った人間がわかっていたはずの事実である。原発は停止していてもお金がかかるし完全に安全ではない。しかも廃炉には長い時間がかかる。更に、廃棄物には処理方法がないので地下深くに埋めるしかない。そう、原発はそもそも出来損ない(見切り発車)の技術なのである。なので、止めておくより、動かしてお金を稼ぎながら、「これ以上新設はしない」「だいたい発電技術を日本の総力を上げて開発し、それと置き換える=地元に還元する」したほうが良い。

防災意識を持ちと準備をしていたとしても、地震の被害は突然来て長く影響しつづけるので負担が大きい。どうすればそれを少しでも軽減できるか。それは地震列島日本に住む人間が考え続けなければならないことなのであろう。

なんか取り留めもなく書いたが、人間、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ことがあるので、こんなことでも記憶を掘り起こしてとどめておこうと思った次第である。

合掌。
(C)おたくら編集局