大阪古絵葉書(1)2020年08月20日 06時11分52秒

古絵葉書の中に大阪のものがあった。
年号が書いてないので、写真から推測することにしよう。
後で書くけど、およそ100年前のものなので全部出してもいいよね?

まずは分かりやすいところから大阪駅舎。当時は梅田停車場といった。この写真にある駅舎は2代目で明治34年から昭和9年まで使われていたようなので、この絵葉書もその間のものとわかる。
さらに市電が既に走っているところから明治41年以降である。

赤字で書かれているのが大阪言葉。関西人なら今でも読めるんじゃないかな。まあ今時ここまでベタベタの大阪弁使う人は少ないと思うけど。

昔の大阪の情景を記述した、長谷川幸延著「大阪今昔」から「梅田」の章を紹介しておこう。
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「梅田」
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(前略)

 汽車で、東海道線を東から入って来て、新淀川の鉄橋を渡ると、いよいよ大阪の瓦の波であって、渡ったところが北野、そして梅田である。

 梅田は埋田[ウメタ]であるという説が、古くから行われている。田圃を埋めて土地としたからだとも、ここが墓地として発達した基因をつくったから、埋葬すなわち埋田だともいうのである。北野につづいて梅田とは、やはり菅公に因んだものであろうと雅びかにいう説もあるが、本当はそれが曽根崎村の地内で、曽根崎の墓ともいったが、もと梅田宗庵という人の土地であったところから、つい梅田の墓といい、やがては梅田村の地名となったものであろうと思う。

 ここが墓地として指定せられたのは元和の初年、大阪落城の直後で、松平忠明が城代であったころの改革であろう。その時寺院や墓地の移転廃合があって、天満の町家にあった墓を葭原(現新京阪前)、浜村(南浜)と共に梅田に移された、いわゆる大阪七墓の一つである。大阪の七墓まいりは、昔は盛んに行われ、近松の作品にも「あだし煙の梅田の火屋・・・」にはじまって、葭原、蒲生、小橋[オバセ]、高津[コウヅ]千日、飛田と数えられている。後年には長柄[ナガラ]が入って、高津がなくなっている。もっとも、この時の墓地は、梅田橋の北、かささぎの森、上福島田地をすぎたあたり、現在[イマ]の北梅田町へんで、大阪停車場、梅田町、東梅田町、西梅田町は、いづれも田圃の、いわゆる梅田堤であり、のちに新建家[シンタチケ]とよばれて野中の村落であった。

 ここが神戸・京都間鉄道開通と共に、大阪の表玄関となり(それまでの表玄関は諸国里程中心の高麗橋と、三十石船の起点である八軒屋であった)事情も環境も一変した。
何しろ、この時鉄道敷地として買上げられた価格が反当り四十五円というのだから驚く。それでも当時の人々は民有地としてこの高値に驚いたというのだから隔世の感である。もっともこれは明治二年のお話。三十一年には坪百円をとなえるに至り大阪でも鰻上りの地価であった。何しろ鉄道の中心地だけに足が早いというわけであろう。

 鉄道は明治七年五月に、大阪・神戸間が完成した。途中西宮、三宮の二駅があっただけで、運賃は上等一円、中等七十銭、下等四十銭というわけ。そこで大阪停車場を梅田、くわしくは大阪府下西成郡第三区七番組曽根崎村に設けて、一日八回の往復運転を行った。大阪・京都間は、線路決定に異論を生じてややおくれ、九年七月に至って向日町[ムコウマチ]・大阪間が、九月に至って七条大宮までが開通した。途中駅は向日町のほかに山崎、高槻、茨木、吹田の四つであった。

 明治十年二月五日、大阪停車場を中心に京都・神戸間鉄通開通式が挙行され、折柄薩南の風雲急をつげていたが、明治天皇には特に思召をもって御臨幸仰せ出だされた。当時の大阪知事は、かの撃剣知事とよばれた東民、やりての渡辺昇であった。

 その日は、午前九時三十分京都七条停車場発、十時四十分大阪梅田停車場着、さらに式後十一時十分発、正午神戸停車場着の御召列車のほか、一切の列車を休み、大阪鎭台からは歩兵第十聯隊第三大隊を儀仗兵として、祝砲施行のために砲兵第四大隊の中野砲一小隊を、それぞれ出張せしめ、各戸国旗をかかげて行幸を奉迎した。翌日の浪花新聞にも

「この日はいとのどかに晴れ渡り、さし昇る旭の光は昨日より降りつもりたる屋上の雪に映りて射眼までに照りかがやき、軒端々々に競い揚げられたる国旗の、春風にうちなびきたる景色、さながら一月一日をふたたび迎うるに似たり・・・」

 と、迷文で報じている。

 午前十時四十分、梅田停車場着御になると鉄道線の東手においた六門の四斤砲から祝砲百一発、雅楽合奏の間に玉座におすすみあそばされ、渡辺知事が庶民を代表して祝詞を奏上すると、畏くも勅答をたまわって、式後、神戸へ向けて御発車になった。式はそれをもって終了したが、式後そこで生一左兵衛らの演能があった。

 この大阪停車場は、現在のそれより遥かに西、梅田郵便局の西一丁、古来の住の江とよんだあたりにあって、広漠とした中にポツンと一つだけ煉瓦建ての建築場だった。したがって、現在の停車場の西口に当たる渡辺橋筋が東口、西口は出入橋筋にあたっていた。東梅田町、西梅田町の称呼は、これによって付けられたので現在の停車場を中心としてのことではない。駅前には数十株の樹木を植え、庭園のようにして、趣きをそえた。

 この第一次大阪梅田停車場は、明治三十五年七月に竣工した第二梅田停車場(すなわち現在の場所における前進)に移転するまで、二十五年間そこにあった。

 さて、筆者などの、上り列車の煙を見て、遥かな東京をあこがれた梅田停車場は、この第二次のそれである。現在の東海道線豊橋停車場、あれをやや規模を大きくしたものにすれば、いかにもよく似ていると思う。豊川稲荷行きの電車のところなど、往年の城東線乗場を髣髴させるものがある。構内の様子もやや似ていると思う。我家から遠くないので、幼いころ、親戚のお客を送って行って、五十銭銀貨をもらって大喜びして走って帰る道でおとしたのも、この停車場であった。

 現在の拡張された新装の豪華な建築物は、第三次梅田停車場で、昭和十五年七月、戦時下工芸の粋をほこって出現した。もっともこれはまだその全部ではない。やがて全貌をあらわし、停車場前の予定地にビルディングが立並んだならば、丸之内の、さらに近代化した風景が展開されるであろう。

 が、それはいかにも我々のもつ梅田という観念から、はなはだ遠いものになってしまうであろう。ありし日の梅田は、すでにあとかたもなく、停車場前のアスファルトの下へ、ぬりこめられてしまったのである。

 あの駅前に立ち並んだ運送店と、御中食お支度処、旅人宿、うどんや、七軒もあった岩こし(粟おこし)屋、そして安カフェー、男女口入所・・・駅前にもう口入屋のある風景などはものの哀れを思わせるし、旅人宿の看板に「宿料いかようとも御相談いたしますと大書きしてあったのも、大阪らしい味であった。ここの、この風景だけは、豊橋駅江前には求められない。明治、大正期の大阪の、寝起きの顔である。行く行く船場、島の内とお化粧して、心斎橋筋、道頓堀と満艦飾になるが、大阪に下り立ったばかりの梅田の駅前は、まさに朝寝髪の素顔であった。

(後略)

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次は新世界(ルナパーク)。
これは通天閣なのだが、現在の新世界にあるものとは違う。

ルナパークというのは明治45年7月3日に開業した遊園地だ。大正12年には閉園しているので、この絵葉書が明治45年から大正12年までの間のものであることが確定できる。下の文面にある飛行船がまだあるところから、この期間の中でも比較的初期だと思われる。仮に大正5年位だとすると105年前ということになる。

この初代通天閣はルナパーク閉園後も残っていたらしいが、大東亜戦争での金属供出によって解体されてしまった。

また「大阪今昔」から「新世界通天閣」の章を紹介しておこう。ここに書かれていることの多くが絵葉書写真でも確認できる。
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「新世界通天閣」
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 四天王寺の付近を天王寺とよび、天満宮の鎮座ましますところから天満の地名があるのは、まだ不思議ではない。しかし、恵比須町界隈を、遂に「新世界」と総称するに至ったのは、その名がいかにもお酒の銘みたいで妙ちきりんなのに、今では誰も怪しまない。

「新世界へ行[イ]こか」

 で、充分通じる。

 大阪人は、道頓堀、千日前一帯を「南」と愛称する。昔の大阪市の、南部に位していたからである。が、今では、市の中央部といって差支えない。だから

 「南へ行こか」

 とは、決して方角を意味しない。玉造からも、南へ行こかであり、松島からも、南へ行こかである。恵比須町から道頓堀は北にあたる。それでも、南へ行こか、である。
それから見れば、新世界はまだましであるが、正しくは、嘗て新世界という娯楽場のあった付近、というべきである。何しろ、澤田正二郎は澤正、山崎長之輔は山長で通じる省略好きの大阪人である、麻布一の橋を、麻一では通じないが、天神橋筋六丁目が天六で、上本町[ウエホンマチ]六丁目が上六[ウエロク]、車掌までが

「次は上六だっせ」
「上六、降りまっせ」

 の大阪では、昔新世界のあったところ、が、「新世界」で通じるのは当然かもしれない。

 いま其処に、天を摩す残骸となって、空しく空に屹立している通天閣。これだけが、現在[イマ]もなおのこる

 新世界通天閣

 である。

 明治三十六年四月、大阪市に開催された第五回内国勧業博覧会は、大阪の社会百般の文化に、極めて大きい影響と示唆とを与えた。市中の諸河川に巡航船の通じるようになったのも、市電がはじめて開通したのも、同博覧会の参考館へ出品され景物的に運転された蒸気自動車によって、実に大阪における自動車普及の嚆矢になったのも、皆これ
である。その他、大阪の工業技術、商業活動の上に寄与したことは数えきれない。旧大阪公会堂も、大阪ホテルも、博覧会にそなえて三十六年一月に新築落成している。

 のみならず、その博覧会敷地跡は三十七八年の戦争に、或いは病院となり、俘虜収容所となり、四十二年には天王寺公園として面目一新した。同公園は、大阪市民に与えられた唯一の公園である。そして、美術館、参考館、温室などを旧博覧会から受け継ぎ、美術館は大正八年、市民博物館として開館された。

 さらに、同敷地跡であって天王寺公園に編入されなかった西の部分、柵外地四万余坪が遊んでいた。市当局は、これを一般に解放して娯楽場とし、大阪市の南方発展に資せんとする意向があった。この意を体して、大阪土地建物会社が賃借して経営したのが、新世界ルナパークで、四十五年七月三日から開業した。

 ルナパークは、Lunar(形容詞)、Luna(月)(a)r(の)--月の、公園である。はじめは、その名のごとくアメリカの遊園地式に企画され、敷地の中央に庭園をつくり、築山あり、泉水あり、瀑布あり、動物檻もあれば、メリーゴーラウンドあり、回転木馬ありという構成。この庭園の東西に二つの劇場があり、清涼殿の方ではユニバーサルの活動写真、月華殿の方では田宮貞楽の喜劇を開演して、各各千五百人の収容力があった。ひろい瀟洒な花園を自由に散歩出来る劇場というのだから、今から三十年前としては、すばらしいものであった。いわば、このルナパークを模倣、改良して、のちに千日前に楽天地、市岡にパラダイスなどが、出現したが、これはその以前における、大衆慰楽のオアシスであった。

 通天閣は、この新世界ルナパークの中心として、象徴としてそそり立つ二百五十尺、全部鉄骨材料をもって組立てられたエッフェル式高塔である。そのころ、大阪の子供たちのうたった尻取唄に

「何とかは光る、光はダイヤモンド、ダイヤモンドは高価[タカ]い、高いは通天閣、通天閣は揺れる、揺れるは何とか・・・」

 というのがある。しかく、大阪で高いことの比喩には必ず引合に出された通天閣ではあった。全部鉄骨材料を使用してあっても、暴風の日には、頂上にいると、ゆらゆらと塔の揺れるのが分ったという。夜は、塔いっぱいにライオン歯磨の電飾広告が燦として、南大阪の空に照り映えて壮観であった。古い、大阪特有のおんごくのうたに

 ^^玉江橋から天王寺が見える・・・

 という。昔は、中之島玉江橋から天王寺の塔が見えたらしい。が、近代の煤煙都市ではそれは望めない。しかし、夜空にきらめく通天閣の電飾は、玉江橋阪大病院の窓から、それとはっきり眺められて、夜の大阪の偉観たるを失わなかった。

 又、通天閣自身からの眺望も、遠くは摂・河・泉の山川が模糊としてひろがり、近くは大大阪の瓦の波が、ひたひたと脚下にだだよう。大阪城の天守閣が再建せられない以前であったから、何んといってもこの頂上がいちばん高かった。ここへはエレヴェーターで昇るのだが、エレヴェーターとしても、われわれ子供が乗った最初のもので、下駄をぬいで入った人のあったのを覚えている。

 この通天閣から、池をへだてた白塔、ビリケン塔へはケーブルがあって、六人乗りのケーブル・カーが往復した。これを、索道飛行船と称したが、人工ながら豪壮な瀑布や、欧風の花壇の上を悠々と通るのであるから、全く羽化登仙の趣きであった。が、久米仙人ではないが、ある時ケーブルが切断して、ケーブルカーが件の池へ墜落し、死傷者を出した椿事があり、それから間もなく索道飛行船は就航を中止した。

 そのケーブルの一点であった白塔には、その頃流行の舶来の福の神、ビリケンさんの像を安置してあり、ビリケン塔と呼んだ。当時新輸入のこの福の神は、殊に花柳界での人気すばらしく、縁日の艶歌師も、ビリケンの読売りを

 ^^嬪頭廬[ビンヅル]さんは、痛いところを撫でれば癒る、ちょいとネ、ビリケンさんは足の裏を掻いてもらえば、福の神・・・

 云々とやった。ケーブル・カーが中止となり、したがってビリケン塔も取壊しにあったあと、この福の神はお額[デコ]が欠けたり、足の指が四本半になったりして、その残骸を通天閣の下、エレヴェーターの昇降口に曝し、哀れな辻占売りに零落していたが、いつの間にやら全くその姿を消してしまった。

 天王寺公園には、第五回内国勧業博覧会ののち、拓殖博だとか、記念博だとか、いろいろな博覧会が催された。会期はたいてい春三四月を中心に始終されたようである。

 博覧会といえば、陽春の光ただよう日曜日、柔らかな草の絨緞をふんで、祖母に手をひかれながら訳分からず観て廻った、いろんな博覧会を思い出す。そしてその帰りには必ずルナパークへ廻った。たいていの人が、そのコースをとるので、ルナパークもあふれるような群集であった。

 人波にたつ砂埃が、濛々として陽射の中に乱舞すれば、遠く会場からきこえるジンタの音は、美しき天然となり、湖上舟遊となり、君が代マーチとなって夕暮れの哀愁をそそる時、まだ残照の空に通天閣の電飾が仄かにまたたき、片輪になったエトランゼーの福の神の眸[メ]が、子供心を物悲しくさせた。それらの日、夕飯をたべた広田屋の庭
や、雲水の給仕の半衣といっしょに、いつまでも忘れられない幼い日の映像である。

 このルナパークの組織は大正十五年かぎりに改められ、園内への入場料をとらず、自由に出入りさせ、興行館がそれぞれ入場料を徴収する制度になった。この制度によって、新世界は面目を一新し、花園も、池も、痕跡をとどめず、そのあとへ諸種の興行物や、飲食店が立並び、いわゆる新興の歓楽街と化してしまった。千日前よりさらに低
く、メタンガスのような体臭を芬々させ、一種の新世界色をぬりたくった。

 その一つの特徴が、軍艦横丁である。

 軍艦横丁とは、新世界の東南の一角にある噴泉浴場の西側にそった小路である。ここは法善寺横丁のさらに低俗なる、嘗ての千束町に似て非なる銘酒屋小路である。

 ここでは祝儀の五十銭で、安値に酌婦の絃歌さんざめき、酔客はかんたんに南陽の名妓を侍らしたと同じような愉悦をほしいままにして、一日の労苦を忘れるところである。軍艦横丁という名の由来する所以は、筆者は知らない。

 ただその中にあって通天閣だけは節電になる最近まで、依然としてその電飾を南大阪の夜空に高く聳えさせ、東洋一の自称を誇っていた。

 が、その通天閣も、遂に永久にその姿を消す時が来たのである。

 去年の暮の東京朝日に、今度東京と大阪の名物が一つづつ、それぞれ政府の金属回収運動に応じて、永遠にその姿を消すという記事が掲載された。まだ耳新しいことだから、御記憶の人もあろう。東京の一つは谷中の墓地にある新派演劇の鼻祖川上音二郎の銅像で、大阪の一つは、この通天閣である。通天閣の鉄材は、時価百万円、取除け費用
に一万円かかるそうである。

 長年見なれて来た通天閣がなくなるのはいささか淋しい。が、通天閣自身も、これ以上風雨にさらされながら天に向かって背伸びしたところで、何の役にも立たない。

 この稿を急いでいる時、新聞紙はふたたび通天閣のことを報じた。その脚下の大橋座から出火した炎は、ずっと東に伸びて五つ六つの映画館を総舐めにしたという。さらば古き新世界は、真に大衆慰楽の新世界として、やがて更正の姿を見せるであろう。通天閣にも、もう解体の足場が出来たであろうか。それともすでに半ば姿を消したであろうか。
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やばければ削除するので、読みたい人はお早めに。「大阪今昔」も随分と前に新潟で発見したのだけど、内容が面白くて全文現代語で打ち込んだ。大阪の歴史に興味がある人には読んでほしいけど今どこで読めるのかなぁ。
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