大阪古絵葉書(3)2020年08月22日 06時05分34秒

千日前再び。
千日前はこれと楽天地の2枚があったわけだけど、それだけ当時の千日前が繁華街だったということだろう。この写真からもどえらい人出が見て取れる。「演芸」という看板もあることから、こちらにも楽天地に近いものがあったのだろう。「キネオラマ」という看板もあるが、それは「パノラマに色彩光線を当てて景色を変化させて見せる装置。明治末期から大正にかけての興行物」らしい。

こちらには市電が見えないところから、楽天地とは通りが違うのかもしれない。ちなみに、大阪では南北が「筋」、東西が「通り」である。京都ではどちらも「通り」だけど。

ここでも「大阪今昔」から千日前を紹介しよう。
-----------------------------------------------------------------------
「千日前」
-----------------------------------------------------------------------

 下[シモ]がかった話でおそれ入るが、大阪には、昔はそこの辻、ここの辻に小便たんごが置いてあった。現在の「共同便所」である。千日前は、四時人出が多いので、以前にはその設備が沢山あった。何しろ、小便たんごを「正弁丹吾」ともじったいっぱいのみやがあるくらいだ。現在でも、千日前のど真ん中、肉屋のいろはのま正面に、往来せましとそれがあって、この盛り場の美観を傷つけることおびただしい。

「何んとかして、この便所を取払えんもんかいな」
「いやいや、これを取払うとなると、この辺一帯の名が変わるさかい・・・」
「そら又、何んでや」
「ここに便所が無[ノ]うなったら、この辺をせんち(雪隠)前といえんやないか」

 とでもいいそうな、存在である。

 千日前という地名は、千日寺[センニチデラ]の前あたり、と、いうほどの意味である。竹田出雲がここに棲み、千日軒と称したのは有名である。

 しかし、昔から千日寺という寺号の寺はないので、竹林寺がそうであろう、いや、今はないが昔の六坊がそうであろう、と古来諸説紛々である。それぞれ拠所[ヨリドコロ]があってのことであるが、「難波鑑[ナニワカガミ]」第四の、法善寺墓参、のくだりに、

「千日寺のたたきがね、諸行無常のひびきあり。歌舞喜[カブキ]若衆の花のかおばせも、ついに必衰をあらわせり。さればあしたには、紅顔ありて正路[セイロ]にほこる人も、夕べには、この墓所[ムショ]にきたりて、白骨となりて朽る(中略)そもそもこの法善寺と申せしは、寛永年中の頃おいより、千日の念仏をとりたてしより、人こぞりて千日寺といえり。それよりつづいて、今は不断念仏の道場となれり(中略)端居[ハシイ]して、人々の心をうかがい見るに、予が如き人のおおくて、実に参る人まれに、わかき人々は、色にそみ、あるいは酒宴など催し、ざわめき遊ぶ人がちにして、あるいは、勢い猛[モウ]にののしり、はては、喧嘩して、法場をけがす人あり(中略)かかることをしても、物詣[モノモウデ]というべきや、おそるべくつつしむべし」

 千日寺とは、法善寺のことで、この盛り場は昔からあまり品行のよくないところであることを、立証している。喧嘩は、つねに互いの水かけ論に終始し、そのためでもあるまいが、境内には「水かけ不動」が、鎮座まします。そして、喧嘩のたびに、

「まあまあ、双方、水にながした方がええ」

 と御託宣遊ばされる。

 由来、火焔のお好きな不動尊に、ここでは水をかけて祈願をする。不動は迷惑ともいわず、まさに、水火を辞せざる御誓いである。この不動さんは、何故か花柳界の信仰を一身にあつめ、地元の南地五花街はもとより、遠く新町、曾根崎[キタシンチ]からのお詣りも多い。そして芸妓は

「何うぞ、旦那はんが浮気しまへんように」

 と、水をかけ、女将は

「何うぞ、ハーさんの貸しが無事にぜんぶ取れますように・・・」

 と、水をかける。水商売[ミズショウバイ]というものも、この辺からはじまったのかも知れない。

(中略)

 千日前の明治以前は、近松つくる「冥途の飛脚」で中兵衛が、心ならずも公金の封印を切って消費したあとで、

「その千日が、肝[キモ]さきへ・・・」

^^焼匁(焼き場)の露・・・となる身の果てを戦慄しているように、刑場と、火葬場と、墓地とで人に知られていた。

 刑場跡は、現在の歌舞伎座前の市電線の反対側にあり、獄門台もそこにあった。が、ここは葬送、墓参に人出も多く、獄門は諸人への見せしめのために行われたが、処刑はおもとして鳶田(飛田)の刑場で代行した。芝居で有名な梅の由兵衛の処刑も、由兵衛は鳶田刑場で、女房お梅は野江刑場で行われ、首だけは千日に曝されている。三勝半七が、この刑場近くで心中しているのは、自ら身を責めてここを選んだのであろうか。

 獄門台の横には、囚人や死骸をあつかう非人小屋があり、その後方が東墓地、向う側が西墓地だ。二つの墓地の間が通路で、現在の千日前の人通りがそれである。

 その人通りを南へ、無常の橋の石橋をこえようとする左右に、二基の迎え仏が立ち、橋を渡ると左に安楽寺(東西南北の四坊と、中の坊、隅の坊の、いわゆる六坊)等があり、その塀外に六地蔵が並んでいた。この道の真正面、現在の歓楽街のつきあたりに、祭場(斎坊)、その奥に、火葬場があり、その左方一面は、灰山といって、うづ高いまでにひろびろと、焼きあとの骨の捨てどころである。無常の橋の下の水は、といっても泥溝[ドブトロ]で、西南に流れ落ちて、難波の新川へはいる。いまもなお、千日前の溝[ミゾ]の側[カワ]というのは、その下水による地名である。--明治以前の、千日前は、ザッとこんな有様であった。

 この刑場は、明治三年四月に廃止となり、火葬場、墓場は、はるかに市外の阿倍野に移転せしめた。阿倍野の墓地を「南の新墓[シンバカ]」とずいぶん久しく呼ばれていたのは、そのためである。阿倍野斎場の入口に、現在もなお一体の迎え仏が立って居られるであろうか。それこそただ一つ千日墓地の遺物として、昔を語り顔なる御仏[ミホトケ]であった。

 火葬場と墓地の移転で、一時は衰微した千日前が、今日の殷賑を招来した動機についてもいろいろの説がある。寺前の葬儀屋藤原重助が、六坊や法善寺を説き、法善寺内三勝半七の比翼塚を材料に、笠屋三勝の何周忌かに当るのを幸い、盛大な開帳をして人を集めた。勿論、道頓堀が近いところから、芝居関係ともタイアップしたのであろう。こんな事には趣味のある大阪人は、たちまち踵を接して集った。人出があるから諸方から小屋がけの興業物[タカモノ]がかかる。開帳がすんで後も、興業物だけはそのまま其処に居すわり、追々小屋がけから本建築に移って、次第に発達したものだという説もある。

 愛知県出身の横井勘七が、人のいやがる灰山一体を一手に引受け、白骨の山は一坪一両二分で讃岐と備前へ売り捌き、その後の土地を自分のものにした。そして、その広場へ夜店を出させることを奨励した。現在でも大阪屈指の夜店に、「お牛[ウマ]さん」がある。自安寺妙見の縁日であるが、そのはじめは、横井勘七の提唱によるものだという。横井は、後にその広場へ横井座を建て、その落成の日に、その劇場の木戸前で横死した人である。

 夜店が千日前繁栄の一因であったことは、事実らしく、今一つの説は、今に千日前の開発者と称せられる奥田弁治郎(前記、かけ小屋興行ものの元締で、軽業、曲馬など、当時尖端を行く眼新しいもので客をひき、一大歓楽場たらしめた)の妻が、自ら油代一日一銭を補助して、平野町の夜店商人の出張を慫慂したのがはじめだという。三説、それぞれ據所[ヨリドコロ]があり、その三人がともに千日前隆盛の功労者であった事は事実である。

-----------------------------------------------------------------------

道頓堀。
今でも有名な繁華街だけど、当時から大きな建屋が並んでいるのがわかる。人出で言うなら上の千日前のほうが圧倒的に多そうだけど。
ここによると、大正から昭和初期はこんな感じだったみたいだ。まあこれ自体は他の写真の年代からみて大正初期だろう。
ここは道頓堀中座前らしいのだが、現在中座は存在しない。江戸から続いた歴史ある劇場だったそうだ。

手前にある看板には「果実特売」と書かれているが、果物屋だろうか。「高等果実」ともあるので輸入物でも扱っていたのかもしれない。その隣は「御菓子」、その横(奥)の提灯が並んでいるのが中座だろうか。

仁丹の看板がひと際目に付くけど、明治38年に発売されたそうな。この一見軍人さんの看板;実は外交官らしいのだけど、今も同じ。看板1つからも色々わかる。

「大阪今昔」から道頓堀の章の内、劇場について書かれている部分を紹介しよう。
-----------------------------------------------------------------------
「道頓堀」
-----------------------------------------------------------------------
 話が道頓堀となると、書ききれないほど書くことがある。

 数ある道頓堀の回想の中に、とりわけ忘れられないものが二つある。1つは、師走極月もおしつまった大晦日ちかく、初芝居の看板上った五座の表で打ちならす、なつかしいしころの音である。

 しころとは、何ういう字をあてはめるのか知らないが、芝居国の人々にとって、これほどハッキリ年の瀬を感じるものはない。

 役者は役者、衣裳方は衣裳方、狂言方は狂言方なりに、それぞれ仕事の上での迎春の支度はととのった。ホッと一息する耳へ、カンカラカンノカン、ドドンガドンと、遠く聞こえて来るしころほど、あわただしくも又華かに心そそられるものはない。しころは、擦鉦[スリガネ]、太鼓、本釣[ホンツリ]、酒樽などを持出して、めいめいが拍子面白くそれ
を打ち叩くと、一人がひょっとこ(大阪ではすぐいち)、一人がおかめ(大阪ではおたやん)の面をかむり、赤い襷に、ほこりたたきをもって踊るのである。これは一切、踊りも囃子も表方(劇場付事務員)がやるので、裏方から手伝いには出ない。ただ囃子部屋から、鳴物を貸し、叩きかたの伝授くらいに出張するだけである。表方の連中は、みなそれぞれ御神酒[ミキ]がまわり

「素面[シラフ]ではやれまへん・・・」

 などいいながら、それでも嬉しそうにはしゃいでいた。

 まだ朝日座が映画常設館になる以前は、東から浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座と五つの櫓の下で、おのおの華美をきそってしころは打囃された。朝日座が映画になってからは、四座になった。

 そのころ、中座、浪花座は、一回興行で大芝居とされ、初芝居も元日を休んで二日初日であった。暮の二十七八日に看板を上げ、表かざりは青竹の矢来に庵[イオリ]名題をならべ、顔見世の昔をしのばせ、大晦日の夜の灯ともし頃から其晩、除夜の鐘の鳴るまでしころを囃した。が、角座、弁天座は、成美団、山長、新国劇、或いは歌舞伎の安値興行で二回芝居、大晦日には初日をあけた。だから、大晦日の夜、大詰の幕がしまり、止め柝[キ]が入るのをキッカケに表方は待ってましたとばかり、しころを囃す。そして、あふれ出る観客の頭の上から、色とりどりの裂地でこさえたほこり叩きをふり立てて踊った。中には明日の晴れにと美しく結い上げた島田の髷へ、わざとさわる悪じゃれもするのである。が、しころ囃子の雰囲気の中では、それも赦され

「うち、かなわんわ」

 甘ったるい抗議ですまされた。もう一時間もすれば除夜の鐘の鳴りわたる路上へ、しころは気狂いのように囃される。

 東京では今でも十一月興行を、名のみではあるが顔見世興行と銘を打つ。京都の顔見世は十二月。千枚漬の匂いと疎水にうつる顔見世の灯は、京都の師走を象徴する。大阪には近年、顔見世と呼ぶものがない。だから、昔の大阪の顔見世の名残りを、初芝居へ持越して情趣をそえているものが沢山ある。大手笹瀬連の手打などもその一つである。

 今では、芝居は年中開演されているが、昔は春の初芝居、つづいて二の替り、三の替りを打てば一休みして、盆替り。あとは休みで十一月の顔見世となる。一年、五芝居が定例であった。俳優はすべて一ヶ年契約で、その座の座附となる。十一月、その翌年の四回の興行に、これだけの役者をあつめて開演いたしますという披露、すなわち顔見世であった。顔見世には座元は、太夫、子役、若衆形、娘形、若女形、立役と次々に観客に引合せる。すると手打連は、揃いの衣裳で舞台端にならび、役者に贈りものをしたり、拍子木を打って興をそえる。手打連といえば、すぐ大手、笹瀬というが、そのほかに藤石、花王の二つがあった。津南雑記にも

「その規模とするは本舞台の大幕、桟敷の高欄幕、破風の鱗水引幕など、年毎に新調し、角、中両芝居へ贈れり。里俗、女夫連中とて、都鄙の見物、笹瀬大手の両引幕を見ざれば、大阪の歌舞伎芝居と思わぬようになりたり」

 とある。四連の中、やはり大手、笹瀬に止めをさしたと見える。近世までのこったのも又その二つである。手打連の扮装は、黒の熨斗目の着衣に連中の紋、赤の長頭布に紫檀の拍子木といういでたちであった。

 この顔見世の手打を、最近まで初芝居に復活して行っていた。が、もはや連中はないので、俳優が連中に扮して、その面影をわずかにつたえたのであるが・・・。初芝居だけは、場内も昔の雰囲気をつたえ、表方やお茶子の服装も、男はたつつけ、女は赤前垂に黒繻子の帯であった。この古式復活は、道頓堀だけに見られた芝居国の春であった。

(後略)

-----------------------------------------------------------------------
一部用語に現代では禁句となっているものもあるが、作品を尊重しそのまま記載している。
(C)おたくら編集局