大阪古絵葉書(4) ― 2020年08月23日 06時06分53秒
江戸の時代、江戸は八百八町、大阪は八百八橋と言われた。大阪は運河が発達し、それだけ橋が多かったからである。
先に紹介の心斎橋もその1つだが、この絵葉書の中では他にもいくつか紹介されている。
天満橋。大川に架かる橋で、形は違えど現存する。
写真の橋は明治18年にかけられた鉄橋。横に市電も見えるが、曽根崎天神橋筋線で明治44年開通なので、この写真はその後だとわかる。
現在の橋は昭和10年に掛け替えられた。
中央に見える橋が天満橋。天神祭の船渡御のときの写真だ。
このように二重構造になっていて、天神祭のときは下が歩行者天国になっているようだ。
ところで、この船はこの橋の下をくぐるのだけど、このままでは旗が引っかかってしまう。果たしてどのようにすり抜けるのか。考えてみて。
文句の中にある京阪電車の駅は上の写真の右手に「天満橋駅」がある。京阪は明治43年、その天満橋から五条までの間が開通している。絵葉書の写真が撮られたときはまだ出来たてホヤホヤだったわけだ。駅舎が写っていればよかったのになあ(今の場所とはちょっと違うようだけど)。
こちらは難波橋。堺筋にかかる橋である。
これも現存している。天満橋より少し西にある。
市電が見えるが、明治45年に市電が天神橋筋六丁目まで延伸される時、反対運動により旧難波橋を通さずこの堺筋に新橋をかけたという。この写真は当然新橋だから、明治45年以降であるとわかる。
ちょっと遠いけど中央に見える橋が現在のもの。
この写真では見えないが、絵葉書にあるライオンの像は今もあるそうだ。この写真左手、ビルにて隠れている部分だ。奥に見えるレンガ造りの建物は中之島公会堂。
文言にある北浜は橋の左側。まだ京阪の駅がない時代なのでそのことは書かれていない。
絵葉書で見る右手に見える橋は現存しないようだ。
今度は「大正橋」。
これも現存するが、現在のはこのようなアーチ橋ではない。これが掛けられたのは大正4年。なので、この絵葉書はここで明治年間のものではなく大正初期のものだとわかる。まあ、すべての写真が大正に入ってから撮影されたものかどうかはわからないけど。
文言にある通り、下を多くの船が通るため、途中に橋脚がない。
何でも設計上の問題からこの初代の橋は変形してしまい結局戦後かけかえられたのだそうな。当時はまだ国産で鉄橋をかける技術は未熟だったということだろう。
現在の写真は持ってない。
なお、このあたりの記述は「大阪今昔」にはない。
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