大阪古絵葉書(6) ― 2020年08月25日 06時46分55秒
「阿弥陀池」。
ここも行ったことないので「大阪今昔」におまかせ。
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「阿弥陀池」
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灌仏会のことを、大阪では八日日と呼ぶ。誤植ではなく、八日日、すなわちようかびと読む。四月八日、釈尊の誕生会で、大阪市中は、物干台に竿を立て、そのいただきに山躑躅[ツツジ]の花を高くかかげる。釈尊にかかげるのか、日天子にささげるのか、詳らかではないが、この花のことを、てんとう花と呼ぶところを見ると、陽にささげるのであろうが、何故四月八日にそれをするのか、筆者は知らない。
とまれ、五月の鯉のぼりに先立ち、大阪の町の瓦々に、てんとう花の立ちならぶ時、陽春の紫雲は、その花の上にただなわる趣きで、燗春を感じさせる。
この日、堀江の和光寺は、灌仏会のほかに、お景物の植木市でにぎわう。
和光寺は蓮池山智善院と号し、信濃の善光寺の末になっているが、本家争いをするなら、此方が先といいたいところである。
本堂の北に、池があり、推古天皇の御宇に信濃の人本多善光がこの池から異様な光が発しているのを見て、いわゆる閻浮檀金の阿弥陀仏を得て、これを奉じて国へかえり、厚くまつったのが善光寺である。その昔、物部守屋が、仏像を投じた難波の堀江がここで、その尊像が出現ましましたのだともいう。阿弥陀ヶ池の名は、そこから出たので、和光寺というより阿弥陀池の方が通りよく、御[ミ]池橋、御[ミ]池通りなど、それに関連しての地名である。
寺名に、蓮池山という山号があるように、この池は蓮の名所で、池の中央に放光閣がある。幼い日、この橋の上から放し亀をして、蓮のうてなの上に亀がのったのを見て
「あの亀さんは、生きたまま極楽や」
といった祖母の笑顔を忘れない。そのころの阿弥陀池には、まだ「浪華百景」の趣きがのこっていた。
和光寺といえば、春の灌仏会もそうであるが、さらに盆の十六日、ここの仮設舞台で踊られる、トツテレチンチンの踊りはなつかしい。慶祝の踊は、エライヤッチャ、盆踊はトツテレチンチン・・・それで通じるのが大阪弁である。
「盆踊見に行こか」
などとはいわない。
「トツテレチンチン、行こか」
それこそ、省略といおうか、何んといおうか、飛躍的である。気ぜわしない。そして、何処となくおどけている。それが、大阪弁である。
^^それ西瓜、それ真瓜[マッカ]、それ焼け茄子[ナスビ]、食いたい食いたい・・・
と、すぐ食べもののことをうたい
^^かんてき(七輪の関西弁)割った、摺鉢わった、えらい叱られた、可笑してたまらん
・・・
と、あわてもんをうたう。
この盆踊の振りと三味線は、和光寺だけでなく、大阪中同じであるが、和光寺の仮設舞台で見聞きするのが、いちばん盆踊らしい情趣がある。
ここでは、筆者の見たかぎりでは堀江芸妓が、そろいの浴衣がけで奉仕した。それがまた一部の人気をそそって、評判であった。今里、住吉、新世界などの新興の遊里が、夏の夜の浮気心をそそろうと、しきりに堀江のこれを倣ったが、いずれも落莫として、和光寺という背景を持つ堀江の盆踊には遠く及ばなかった。
盆といえば、堀江の廓はどこよりも美しくよそおう。いわゆる盆燈籠から出発して、さらにそれを雅かにした絹行燈が、そこここに立つ。それには楯彦も書けば、恒富も書く、知道人も描けば、艸平も描く。柳の葉かげにほのかな美人画など、いかにも風情があり、トツテレチンチンの帰りに、それからそれへと見てあるく絹行燈は、夏の夜の景物の中でゆかしいものの一つであった。もっともこれは、グッと近年のことである。
堀江を書くなら、どうしてもここの遊里について、数行を費やさぬわけには行かない。何故なら、ここは他の遊里とちがって、大阪の港をひかえて発展したからである。
往古の堀江とは現在の大川の称呼であったらしいが、現在のところを堀江と称するようになったのは、元禄十一年、河村瑞賢が堀江川を開鑿してこのかたである。ちょうど長堀川開鑿のあとで長堀川、西横堀川、堀江川のFの字をうらから見た形に、徳川後期、大阪が全国物産の集散地としてもっとも繁忙を極めたころの、主要な港が、この
F字形の堀川であった。港々に女ありという、その港を背景として発展したのが、堀江であったのである。そして堀江は、その遊里を中心に市[イチ]の側[カワ]の芝居、角力場などが出現、そのころの大きな盛り場となったのである。
遊里について、あまりくわしくは知らないのでくわしく書くことは避けるが、花に乏しい浪花の春に魁けて
浪花津にさくやこの花冬こもり
けふをはるへと咲くやこの花
の歌にちなむ「この花踊」が、京の「都をどり」にも、南地の「あしべ踊」にもさきがけて、解語の花を咲かせた。
(後略)
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天王寺の釣り鐘。
天王寺と書いてあるが、存在したのは四天王寺境内。
四天王寺を建立した聖徳太子1300年周忌の記念で作られたそうだ。聖徳太子は622年没とされているので、1300年周忌というのは1921年=大正10年だ。しかし、実際に鋳造されたのは1903年。
世界一の梵鐘だったそうな。しかし、鳴らされることはなかった。
というか、ヒビが入っており鳴らせなかったというのが真実らしい。
そして大東亜戦争末期の金属供出で回収されてしまい、なくなった。使われることのない鐘だったので寺としても惜しくはなかったみたいだ。回収前の法要ではつかれたようだけど。詳しくはここ参照。
茶臼山。
大阪で低い山5つの1つ。標高は26mしかない。山というより古墳で
Wikipediaにも「茶臼山古墳」で載っている。
文言には「この池の水はホンマにきれいだっせ」とあるが、今の写真を見るととてもそうは思えない。昔はきれいだったのかもね。
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