これは何処?2020年09月01日 05時50分01秒

明治時代の写真乾板に写っていたこの場所。
椎谷ではない。私の知る土地ではない。土地に特定につながるような資料も残されていないので解らない。
結構家が密集しているのでそこそこの都市だと思うのだけど、どなたかご存じの方がいらっしゃればお知らせください。

こちらも同じ乾板箱に入っていたのだけど、ひょっとしたらこれが手がかりになるかもしれない。でも私にはわからなくて。これだけ大きいのだからそこそこ有名な人のお墓だとは思うのだけど。
こちらもどなたかご存じの方がいらっしゃればお知らせください。

早いうちにまた新潟行って残りの乾板も回収してスキャンしたい。すべてのスキャンが終わってその写真がそれなりに価値があるならWeb博物館でも開こうかな。

中華人民共和国展覧会'742020年09月02日 06時48分23秒

(これでも)比較的新しい写真から1ネタ。

ひょっとしたらあまり知られてないかもしれないけど、千里万博会場跡では、1974年に「中華人民共和国展覧会」というのが開かれた。
実は千里万博には中華人民共和国(以下中国)は出ていない。当時日本とは国交がなかったからだ。出ていたのは中華民国;台湾だ。田中角栄が中国との国交を正常化したのは1972年。

その2年後に万博会場でこれが開かれた。ここを使ったのはおそらく政治的配慮に依るものだろう。ほとんどの建屋は撤去されていたが、日本館は残っていたし、太陽の塔もまだ屋根付きであった。



人出は結構あったみたい。私はまだ小学生低学年だったので覚えてないけど。展示内容も。

会場内の写真はあまりなかった。
この時代の彼の国は謙虚だったのにね。周恩来の言葉なんて今のあの国とかこの国の指導者に聞かせてやりたいくらいだ。

この後日本全国で中国物産展というのが開かれたと思う。なんどか行ってかぼちゃの種とか買ったなぁ。中国に対してはその時のイメージが強くて。今はもうそんな国じゃないのにねぇ。

今は亡き鉄道(21)2020年09月03日 06時26分52秒

終わったと思ったらまた古い写真が出てきたので続き。

これは昭和51年頃の岐阜市内で見た路面電車。
名鉄岐阜市内線だろうか。だとすると、2005年に廃止されている。なんか細長い車両だなぁ。

変わってこちらは大阪駅に止まるEF58に牽かれた列車。
前に出したものとは違う車体。窓にひさしがある。寝台列車かな?

同じ日に撮影した別のEF58。ひさしがない。
当時EF58に牽かれる複数の客車列車があったことを示している。

急行立山。
大阪~富山間を走る急行だった。一部は富山地方鉄道にも乗り入れていたようだ。

特急なは。
モノクロなのでわかりにくいが、多分583系。583系で「なは」が運行されたのは1975年からで(だからこの写真もその頃)、新大阪~西鹿児島(今の鹿児島中央)間を走っていたらしい。朝、新潟行き北越を待っているときに撮影したもののはずなので、新大阪行きが大阪駅に入ってきたときだと思う。

こちらは場所も変わって上野から出発したと思われる特急。
絵入りのヘッドマークがあるのだけど文字が読めないので列車名が解らない。ヘッドマークで調べてみると、どうも「特急白山」らしい。
上野~金沢間を信越本線経由で走っていた特急。直江津経由なので柏崎には止まらなかった。だから乗ったことはない。
今の特急にはヘッドマークがあまりないのかな。あってもLED表示だったりして走行中はほぼ撮影できない。いつか前面に大型表示板を搭載して大型ヘッドマークを表示してくれる列車が出来れば良いな。

今は亡き鉄道(22)2020年09月04日 06時27分25秒

また阪急。1975年頃だと思う。

5000系「臨急」。臨時急行かな。十三の神戸線三宮行きホームだと思う。
当時としては新しい目の車両ではないかと。現在も改修されて残っている。

920系と思われる「臨急」。十三神戸線梅田行きホームだと思う。
当時でも古い車両。当然にはもうない。

淀川鉄橋での撮影。
3000系の「臨急」。なんか臨時急行が多いなぁ。

同じく3000系の特急。

これは6000系。当時の最新鋭車両。
運転席横のHマークがよく分かる1枚。

こちらは後ろ側。
今もここでの撮影できるのかなぁ。列車が近くて迫力がある撮影ができたような。

今は亡き鉄道(23)2020年09月05日 06時54分03秒

今度は、青函トンネルを走っていた快速海峡号。

東北1周旅行をしていた途中、前日に青森に泊まり、朝一の列車=海峡1号に乗って函館まで行き、五稜郭とか函館山行った後朝市で朝市ラーメン食べて帰った。大きなかにが入ったおいしいラーメンだったなぁ。写真はないのが残念。

車内にはこのような掲示板があって、今トンネルのどの位置を走っているか分るようになっていた。トンネル内だけでもどえらく長い時間走るので、このようなものでもないとちょっと不安になる。
確かトンネル内にはイルミネーションがある場所があったと思うのだけど。当時はフイルムカメラなので動画も撮れないし、一瞬だったので写真にも撮れなかった。

乗ったのは1990年。トンネル開通が1988年だから、割とすぐの頃だ。この海峡号は2002年に廃止されたらしい。また、この列車はJR最後の客車を使った普通列車だったそうな。

車内では乗車証明書を買うことが出来た。これも今はもう手に入らない。
オレンジカードは北斗星のだけどね。


今は亡き鉄道(24)2020年09月06日 06時40分10秒

JR北海道の特急北斗。1990年函館駅にて。
函館~札幌間を走る。現在も存在するが、この写真にあるN/NN183系ではなくキハ261系で運行されている。北海道新幹線が札幌まで延伸されたら廃止かな。

同じく無印183系の北斗(右)とトマムサホロエクスプレス(左)。
後者はいわゆるジョイフルトレインというやつだ。前富山駅で撮影したあれと同種。ジョイフルトレインなので不定期で行き先も都度違うんじゃないのかなぁ。そういう意味ではここで撮影できたのはラッキー。
車両はキハ80系をベースにしていると言うことなので古いが、使っているのは足回りだけで丈夫=車体は新造らしい。
2007年に廃止されている。

北海道に列車に行ったのは後にも先にもこの時一度きり。また行きたいけど、遠いなぁ。実は東京オリンピックのマラソンが札幌で開催と言うことで、親戚の家に泊めてもらえれば見に行こうかなあと思っていたのだけど、連絡する前に延期になった。来年はどうかな?

今は亡き鉄道(25)2020年09月07日 06時39分50秒

特急はつかり号。
1990年、多分青森駅にて。青森~上野間、いや、この時代はもう東北新幹線が盛岡まで来ていたので盛岡~青森、一部函館を走っていたか。
今は列車自体が存在しない。これも東北では歴史ある特急名だったんだけどなぁ。

打って変わってこちらは大糸線の列車。
3両で走っている。車両から見てひょっとすると急行かもしれない。3両目は普通車両だけど。年代は、遅くても昭和50年代のはず。今は3両編成の列車はないと思う。また、年代からして姫川の大氾濫で大糸線が掛け替えられる前だ。この橋も今は存在しないかもしれない。

飛騨金山駅で撮影された普通気動車。昭和40年後半。
看板の後ろになってしまい正面がはっきり見えないのが残念。これは祖父が撮影したもの。祖父母はよく旅行に行ってたようだが、写真はたくさん撮っているのに列車を撮影するという習慣がなかったので列車の写真はほとんどない。数少ない1枚。
この気動車車両は今はないと思う。

2005年、高岡駅で撮影した列車。
氷見線の列車かな。ぶりが見えるけど、実は忍者ハットリ君列車。今もあるらしい。「じゃあ、今は亡き」じゃないじゃん(^_^;)

今は亡き鉄道(26)2020年09月08日 06時29分30秒

思いっきり古い写真から1枚。昭和30年代前半だと思う。
山中駅」とある。

北陸鉄道に、今のJR大聖寺駅(石川県の一番福井寄りの駅)からこの山中駅まで結ぶ山中線というのがあったが、昭和46年に線もろともなくなっている。

どうも、当時金沢大学に居たうちの親に会いに祖父母が会いに行って、山中温泉に泊まった際に撮影したものらしい。

電話ボックスも写っているが、これも昔懐かしい形だ。少なくとも昭和40年代までは電話ボックスと言えばこの形だった。今のガラス張りのに変わったのはいつの頃だったか。

関西の都市部に住んでいると、駅名が変わったり駅が増えても減ると言うことは臨時駅以外ではほとんどないから今は無き駅の写真というのは珍しい。

実はこれ、水没したフィルムから救い出した1枚。一部に損傷があるとはいえ、取り出せて良かった。

ということで、このシリーズもまた終わり。

大阪古絵葉書(8)2020年09月09日 06時05分20秒

前に紹介したこのシリーズだけど、抜けがあったので追加。

「築港」。築港とは今でいうところの大阪港である。
車体は写ってないけど市電の線路は写っている。そもそも大阪市電はここ築港の桟橋から花園橋西詰までが明治36年に開通したのが最初である。

また大阪今昔から。
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「大阪築港」
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 大阪市営電車の全市開通(といっても幹線一本だけ)を見たのは、明治四十一年で、翌四十二年天王寺公園で祝賀会を催した。

 春咲く花の 梅田より
 乗出す電車は 心地よく
 曽根崎新地 打すぎて
 行くや堂島 中の島
 ・・・ ・・・

 今、口誦んでも、涙のこぼれそうな歌を、我々子供は意味も分らず喚きうたった。

 しかし、大阪市電はこの歌のごとく梅田を起点として工事されたのではなく、最初は、明治三十六年第五回内国勧業博の閉会後、当時市が巨費を投じて工事をすすめつつあった築港事業進捗の状態を世に紹介するためと、その埋立地の開発に資するため、九条花園橋を起点として築港桟橋まで、単線三里一分四厘を開通したのがはじめで、のちに、二階付電車というのも、この線で初お目見得したのである。

 市はそういう目的で開通した電車であったが、近区域の人々はこれを、「魚釣り電車」と称して、又は「涼み電車」と称して珍重した。そのために、朝夕だけ賑い昼間はガラアキであった。二階付電車などを出し、民心を喚起しようとしたのは、所期の目的に添わしめんがためであったろう。

 この電車は,やがて明治四十一年、「春咲く花」の梅田から、「水は十字に流れたり」の四つ橋へ、四つ橋から松島へのびた路線とつながって、大阪市電第一期線となった。

「電車がいよいよ四つ橋まで伸びましたで」
「市岡新田にも、ソロソロ家が建ち出しました。大阪も広がりましたなあ」

 これで、ようやく魚釣り電車の名が、消えたのである。

 しかし、筆者など、その時分からそろそろと、祖母につれられて、築港見物かたがた、夕方から涼みに出かけ、桟橋の上で氷水などたべた。転た今昔の感である。

 米国総領事ハリスは、安政四年の下田条約以来、開港場の第一に、始終大阪を挙げ、これを要求しつづけた。しかし、大阪は皇都に近く、しかも京都には攘夷論が旺んであったし、海岸そのものも設備が不十分であったため、我が交渉委員は大阪開港の困難をのべ、度々折衝したが、ハリスはあくまで応ぜず、この際は大阪開港を回避しても、やがて時代はそうせずにはいられないのだから、速かに開港した方が賢明であろう、と、説いている。

 数度の折衝の結果、幕府は文久二年十一月十二日、大阪開港と決定した。しかし、大阪は江戸と同条件、すなわち米国人は、商人だけが大阪に出入り出来ることになったので、厳密な意味では開港ではなく開市であり、その代り兵庫港が開港される事になった。

 もっとも大阪開港を要望したのは米国だけでは勿論なく、露国も英国も仏国も等しくそこに眼をつけていた。露国のごときは早くも嘉永六年にその要求を示し、プーチャーチンが大阪に来航したのも、そのためである。然し幕府は文久二年の開港を慶応三年十二月七日に延期する事に成功した。が、外国側の期待は実に大きく、期日に先立って開かれたし、その実現のためには下関償金の放棄も辞せず、というほどの熱心さであったが、兵庫港のみは期日に開港式をあげたが、大阪は開港に至らず、明治維新となった。

 のち、慶応四年七月、新政府によって大阪開港の太政官布告が出て、ひいては川口に居留地の永代借地権が設定されるに至ったが、明治初年、開港場として神戸(兵庫)に著しく立ちおくれたのは、そのためであるといえよう。

 大阪が開港場として神戸に立ちおくれたのはそうした事情にもよるが、六甲・摩耶の峻嶺から直ちに海に迫る、港としての最良条件を具えた神戸に比し、淀川の三角州[デルタ]で成立した遠浅の大阪では、地勢としても一籌を輸さざる得なかった。そのためにも、大阪は長い間、神戸港を通じてのみ、荷物の集散を見ていた。神戸港こそいわば
大阪の玄関で、大阪は玄関の無い家でしかなかったのである。ここに於て、必然的に起ったのは、大阪築港問題である。

 大阪築港問題を、最初に提唱したのは、大阪府知事渡辺昇である。渡辺昇は明治四年、盛岡県知事から大阪府権大参事に栄転して、三月にして県知事に昇進した逸材で、のちに男爵を授けられている。もっとも築港の急務であることは、大阪市民の間にもすでに其処此処で叫ばれていたが、これを総合し、緒につかしめたのは渡辺昇である。

 この時築港計画は、安治川通り一帯の地を開鑿し、川口居留地の西南、富島町を中心として、干潮時に吃水十尺以下の船舶を出入せしめようというのであった。今にして思えば児戯に類したと嗤われようが、当時にあっては勿論大事業であり、経費も二百五十万円を計上した。

 渡辺昇は、この経費を毫も国庫の補助に頼らず、大阪の港は大阪市
民の手によって作る、という建前でかかった。まず、今橋二丁目鴻池善右衛門方に築港事業促進事務所を設けて、各区長等をして市内の富豪巨商を説いて寄付金を募らせたところ、さすが町人の都大阪で、またたく間に二百万円と、古金銀百万円、合わせて三百万円の資金の調達が出来、いよいよ政府の許可を得て工事に着手する運びとなった。

 この時の築港計画を、たたき潰したのは、後の内務大臣(第一時桂内閣)その時の大阪府権大参事として赴任したばかりの内海忠勝であった。もっとも築港計画は、大阪市民の総意であったとはいえ、中には尚早論者も、反対論者もあり、維新日浅く、社会経済も安定していない折柄、御用金的に商工業家の資金を吸収固定させるのは不策だと
の説をなす者もあり、内海忠勝はその急先鋒という形になった。

 しかし内海の中止説は、もっと親切な観点に立っていた。内海は明治四年特命全権大使岩倉具視に随行して、欧米の地方制度を調査してきた新人で、前任神奈川県知事の時、横浜港拡張工事を完成せしめた。彼は側近の人に語って曰く、

「僕が大阪府に赴任するのは、築港計画を中止させるためだ」

 と漏らしたという。その決意以て知るべしである。

 内海忠勝が、政府の内命を帯び、権大参事として赴任し、徐ろに渡辺昇を説き、官民の間に奔走して、一先ずこの計画を中止させたのは、将来日本商工業の中心地たるべき大阪が、今にわかに比較的小額の工事費で、姑息な築港をなすは、あたかも将来の大阪港に向って自ら暗礁を築くようなものである。よろしく時と計画を革めて、十分の考究の上に立って起工するに如かず、というのである。

 事実、この第一次計画が、中止になったことは内海忠勝のいう通り、大阪のために幸いしたともいえる。干潮時にわずか十尺というのだから、まことに小規模なもので、大袈裟に築港工事などというより港湾修繕工事の程度であるが、のちに安治川、尻無川、木津川尻一帯を埋立て、大築港を現出したにかんがみる時、反対に安治川を開鑿して小築港工事を施工していたら、全く大阪港に暗礁を築く結果になっていたかも知れない。

 第一次築港計画は、かくして瓦壊したが、このことが端なくも市民の築港観念を助長して、その後重立った商工家の会合の時など、築港の話の出ないことはなかった。

 その後、第二次築港計画が提唱されたのは明治十九年で、主唱者は当時の大阪府知事建野郷三であった。

 この時の設計は、可成り進んだものであって、湾内の水深を干潮時十七尺以上とし、工事費も四百万円を計上し、着々準備にとりかかった。しかし、この時も埋立でなく、開鑿計画であった。が、この計画は、建野知事が五大鉄橋事件その他で、甚しく民心を失ったので、工事には着工せず他へ転任してしまった。その後へ代って府知事に就任したのが西村捨三である。この人は、後年市民の懇望によって築港事務長になったくらいの人であって就任以来熱心に唱導し、各種の後援団体さえ組織されたが、実現に到らず転任となり、山田信道が襲任した。

 真に築港事業が軌道に乗り実現の緒についたのは、山田信道知事の明治二十五年以後であって、これが第三次築港計画である。

 第三次築港計画は最初の規模こそ現在の大阪湾とは比較にならないが、設計として大差なく、もはや消極的な開鑿工事でなく、安治川、木津川両川の間を中心として天保山沖に南北両突堤を設け、一大埋立地を造り出して、ここに新市街を開かんとするもので、すなわち現在の発展を予想しての立案であった。これは、二十五年一月の市会で満
場一致を以て、まず築港測量費一万三千六百円の支出を議決し、ここに大阪市という公共団体の事業として本格的な発足を見たのである。

 大阪市では、市の有力者にしてその道に通じたるもの十九名を選んで、市参事会の委員と共に、築港に関する百般の調査を依頼し、二十九年その調査を終え、市会では総工費を計上して政府に請願し、政府ではこれに修正を加え、三十年三月十八日衆議院を、同じく二十四日貴族院を無事通過し、三十年九月八日正に設計書を認可された。この
時、認可書を受取ったものは、先に第一次築港計画を阻止した内海忠勝で、このとき山田信道の後任府知事として赴任したのである。奇しき因縁である。

 この工事費総額二千二百五十七万四百円。その中、一千九百万円までが市税と公債で賄い、国庫補助金は、わずかに百八十七万円を仰いだにすぎなく、他は埋立地売却等の雑収入である。かくして、三十年十月十七日、小松宮彰仁親王の台臨をこうむり、野村逓相、樺山内相列席の下に、安治川口に築港起工式を挙行した。その盛大さは、

 「安治川の水を逆流せしめたり」

 と、ある。

 その後、築港事業には公債利子を合すれば一億以上の工事費を投じ、今日の姿とはなったのである。殊に、多少の国庫補助を仰いでいるとはいえ、主として自治団体の力で経営している点、さすが商人の都、経済の都市だけのことはあると、誇り得ると思う。

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で、その「安治川口」。
安治川は1684年に河村瑞賢が幕命により淀川・大和川の治水対策の一環として開削された。その河口にも港があるのだが、築港がどちらかというと軍艦など大型船の停泊用であるのに対し、こちらは中小の船が荷物を下ろすところという感じである。

ここについては大阪今昔には記載がない。

ということで、復活シリーズも終わり・・・ではないのだ。次回を待て!

大阪古絵葉書カラー編(1)2020年09月10日 19時45分52秒

前回までに紹介した大阪の古い絵葉書だが、なんとカラー版が存在した。
カラーと言っても今のようなカラー写真ではなく、白黒写真の一部に手作業で色を乗せたような感じのものである。
子供が上から色を塗ったような、お世辞にもきれいな塗り方だとはいえないけど、当時はこれでも画期的だったのだろう。
写真は同じ・・・と思ったら違う。時代的にちょっと(大幅ではないのは、まだ楽天地があることなどから分る)後なのかひょっとして別会社のものだろうか。それにしては似すぎているけど。文言も異なる。

白黒のものと同じ場所のものは写真での紹介だけとしておく。白黒版の紹介順とは異なる。
千日前は楽天地の写真で置き換えられている。白黒にあった千日前はなくなっている。


天神橋は全く違う画角になっている。



なので、カラー版と白黒版が全く同じではなく時代を反映したのか変更があったりなくなった場所もある。一方で、カラー版には白黒版にはない場所がある。その紹介は次回から。
(C)おたくら編集局