大阪古絵葉書(8) ― 2020年09月09日 06時05分20秒
前に紹介したこのシリーズだけど、抜けがあったので追加。
「築港」。築港とは今でいうところの大阪港である。
車体は写ってないけど市電の線路は写っている。そもそも大阪市電はここ築港の桟橋から花園橋西詰までが明治36年に開通したのが最初である。
また大阪今昔から。
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「大阪築港」
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大阪市営電車の全市開通(といっても幹線一本だけ)を見たのは、明治四十一年で、翌四十二年天王寺公園で祝賀会を催した。
春咲く花の 梅田より
乗出す電車は 心地よく
曽根崎新地 打すぎて
行くや堂島 中の島
・・・ ・・・
今、口誦んでも、涙のこぼれそうな歌を、我々子供は意味も分らず喚きうたった。
しかし、大阪市電はこの歌のごとく梅田を起点として工事されたのではなく、最初は、明治三十六年第五回内国勧業博の閉会後、当時市が巨費を投じて工事をすすめつつあった築港事業進捗の状態を世に紹介するためと、その埋立地の開発に資するため、九条花園橋を起点として築港桟橋まで、単線三里一分四厘を開通したのがはじめで、のちに、二階付電車というのも、この線で初お目見得したのである。
市はそういう目的で開通した電車であったが、近区域の人々はこれを、「魚釣り電車」と称して、又は「涼み電車」と称して珍重した。そのために、朝夕だけ賑い昼間はガラアキであった。二階付電車などを出し、民心を喚起しようとしたのは、所期の目的に添わしめんがためであったろう。
この電車は,やがて明治四十一年、「春咲く花」の梅田から、「水は十字に流れたり」の四つ橋へ、四つ橋から松島へのびた路線とつながって、大阪市電第一期線となった。
「電車がいよいよ四つ橋まで伸びましたで」
「市岡新田にも、ソロソロ家が建ち出しました。大阪も広がりましたなあ」
これで、ようやく魚釣り電車の名が、消えたのである。
しかし、筆者など、その時分からそろそろと、祖母につれられて、築港見物かたがた、夕方から涼みに出かけ、桟橋の上で氷水などたべた。転た今昔の感である。
米国総領事ハリスは、安政四年の下田条約以来、開港場の第一に、始終大阪を挙げ、これを要求しつづけた。しかし、大阪は皇都に近く、しかも京都には攘夷論が旺んであったし、海岸そのものも設備が不十分であったため、我が交渉委員は大阪開港の困難をのべ、度々折衝したが、ハリスはあくまで応ぜず、この際は大阪開港を回避しても、やがて時代はそうせずにはいられないのだから、速かに開港した方が賢明であろう、と、説いている。
数度の折衝の結果、幕府は文久二年十一月十二日、大阪開港と決定した。しかし、大阪は江戸と同条件、すなわち米国人は、商人だけが大阪に出入り出来ることになったので、厳密な意味では開港ではなく開市であり、その代り兵庫港が開港される事になった。
もっとも大阪開港を要望したのは米国だけでは勿論なく、露国も英国も仏国も等しくそこに眼をつけていた。露国のごときは早くも嘉永六年にその要求を示し、プーチャーチンが大阪に来航したのも、そのためである。然し幕府は文久二年の開港を慶応三年十二月七日に延期する事に成功した。が、外国側の期待は実に大きく、期日に先立って開かれたし、その実現のためには下関償金の放棄も辞せず、というほどの熱心さであったが、兵庫港のみは期日に開港式をあげたが、大阪は開港に至らず、明治維新となった。
のち、慶応四年七月、新政府によって大阪開港の太政官布告が出て、ひいては川口に居留地の永代借地権が設定されるに至ったが、明治初年、開港場として神戸(兵庫)に著しく立ちおくれたのは、そのためであるといえよう。
大阪が開港場として神戸に立ちおくれたのはそうした事情にもよるが、六甲・摩耶の峻嶺から直ちに海に迫る、港としての最良条件を具えた神戸に比し、淀川の三角州[デルタ]で成立した遠浅の大阪では、地勢としても一籌を輸さざる得なかった。そのためにも、大阪は長い間、神戸港を通じてのみ、荷物の集散を見ていた。神戸港こそいわば
大阪の玄関で、大阪は玄関の無い家でしかなかったのである。ここに於て、必然的に起ったのは、大阪築港問題である。
大阪築港問題を、最初に提唱したのは、大阪府知事渡辺昇である。渡辺昇は明治四年、盛岡県知事から大阪府権大参事に栄転して、三月にして県知事に昇進した逸材で、のちに男爵を授けられている。もっとも築港の急務であることは、大阪市民の間にもすでに其処此処で叫ばれていたが、これを総合し、緒につかしめたのは渡辺昇である。
この時築港計画は、安治川通り一帯の地を開鑿し、川口居留地の西南、富島町を中心として、干潮時に吃水十尺以下の船舶を出入せしめようというのであった。今にして思えば児戯に類したと嗤われようが、当時にあっては勿論大事業であり、経費も二百五十万円を計上した。
渡辺昇は、この経費を毫も国庫の補助に頼らず、大阪の港は大阪市
民の手によって作る、という建前でかかった。まず、今橋二丁目鴻池善右衛門方に築港事業促進事務所を設けて、各区長等をして市内の富豪巨商を説いて寄付金を募らせたところ、さすが町人の都大阪で、またたく間に二百万円と、古金銀百万円、合わせて三百万円の資金の調達が出来、いよいよ政府の許可を得て工事に着手する運びとなった。
この時の築港計画を、たたき潰したのは、後の内務大臣(第一時桂内閣)その時の大阪府権大参事として赴任したばかりの内海忠勝であった。もっとも築港計画は、大阪市民の総意であったとはいえ、中には尚早論者も、反対論者もあり、維新日浅く、社会経済も安定していない折柄、御用金的に商工業家の資金を吸収固定させるのは不策だと
の説をなす者もあり、内海忠勝はその急先鋒という形になった。
しかし内海の中止説は、もっと親切な観点に立っていた。内海は明治四年特命全権大使岩倉具視に随行して、欧米の地方制度を調査してきた新人で、前任神奈川県知事の時、横浜港拡張工事を完成せしめた。彼は側近の人に語って曰く、
「僕が大阪府に赴任するのは、築港計画を中止させるためだ」
と漏らしたという。その決意以て知るべしである。
内海忠勝が、政府の内命を帯び、権大参事として赴任し、徐ろに渡辺昇を説き、官民の間に奔走して、一先ずこの計画を中止させたのは、将来日本商工業の中心地たるべき大阪が、今にわかに比較的小額の工事費で、姑息な築港をなすは、あたかも将来の大阪港に向って自ら暗礁を築くようなものである。よろしく時と計画を革めて、十分の考究の上に立って起工するに如かず、というのである。
事実、この第一次計画が、中止になったことは内海忠勝のいう通り、大阪のために幸いしたともいえる。干潮時にわずか十尺というのだから、まことに小規模なもので、大袈裟に築港工事などというより港湾修繕工事の程度であるが、のちに安治川、尻無川、木津川尻一帯を埋立て、大築港を現出したにかんがみる時、反対に安治川を開鑿して小築港工事を施工していたら、全く大阪港に暗礁を築く結果になっていたかも知れない。
第一次築港計画は、かくして瓦壊したが、このことが端なくも市民の築港観念を助長して、その後重立った商工家の会合の時など、築港の話の出ないことはなかった。
その後、第二次築港計画が提唱されたのは明治十九年で、主唱者は当時の大阪府知事建野郷三であった。
この時の設計は、可成り進んだものであって、湾内の水深を干潮時十七尺以上とし、工事費も四百万円を計上し、着々準備にとりかかった。しかし、この時も埋立でなく、開鑿計画であった。が、この計画は、建野知事が五大鉄橋事件その他で、甚しく民心を失ったので、工事には着工せず他へ転任してしまった。その後へ代って府知事に就任したのが西村捨三である。この人は、後年市民の懇望によって築港事務長になったくらいの人であって就任以来熱心に唱導し、各種の後援団体さえ組織されたが、実現に到らず転任となり、山田信道が襲任した。
真に築港事業が軌道に乗り実現の緒についたのは、山田信道知事の明治二十五年以後であって、これが第三次築港計画である。
第三次築港計画は最初の規模こそ現在の大阪湾とは比較にならないが、設計として大差なく、もはや消極的な開鑿工事でなく、安治川、木津川両川の間を中心として天保山沖に南北両突堤を設け、一大埋立地を造り出して、ここに新市街を開かんとするもので、すなわち現在の発展を予想しての立案であった。これは、二十五年一月の市会で満
場一致を以て、まず築港測量費一万三千六百円の支出を議決し、ここに大阪市という公共団体の事業として本格的な発足を見たのである。
大阪市では、市の有力者にしてその道に通じたるもの十九名を選んで、市参事会の委員と共に、築港に関する百般の調査を依頼し、二十九年その調査を終え、市会では総工費を計上して政府に請願し、政府ではこれに修正を加え、三十年三月十八日衆議院を、同じく二十四日貴族院を無事通過し、三十年九月八日正に設計書を認可された。この
時、認可書を受取ったものは、先に第一次築港計画を阻止した内海忠勝で、このとき山田信道の後任府知事として赴任したのである。奇しき因縁である。
この工事費総額二千二百五十七万四百円。その中、一千九百万円までが市税と公債で賄い、国庫補助金は、わずかに百八十七万円を仰いだにすぎなく、他は埋立地売却等の雑収入である。かくして、三十年十月十七日、小松宮彰仁親王の台臨をこうむり、野村逓相、樺山内相列席の下に、安治川口に築港起工式を挙行した。その盛大さは、
「安治川の水を逆流せしめたり」
と、ある。
その後、築港事業には公債利子を合すれば一億以上の工事費を投じ、今日の姿とはなったのである。殊に、多少の国庫補助を仰いでいるとはいえ、主として自治団体の力で経営している点、さすが商人の都、経済の都市だけのことはあると、誇り得ると思う。
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で、その「安治川口」。
安治川は1684年に河村瑞賢が幕命により淀川・大和川の治水対策の一環として開削された。その河口にも港があるのだが、築港がどちらかというと軍艦など大型船の停泊用であるのに対し、こちらは中小の船が荷物を下ろすところという感じである。
ここについては大阪今昔には記載がない。
ということで、復活シリーズも終わり・・・ではないのだ。次回を待て!
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