戦時中の絵はがき22020年08月09日 05時39分03秒

戦時中に貯金を増やそうというキャンペーンが行われていたことは前回書いたが、保険でも同様のことが行われていた。それを担っていたのが「日本徴兵保険株式会社」。
てっきり国策企業だと思っていたら、現在のプルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険の前進;大和生命保険相互会社のさらに前進の名前だそうな。

この絵はがきはその保険をかけたときにもらえた物かもしれない。
名前からしてそうなのだが、戦時色丸出しである。当然のことながら、戦後すぐに改名されている。

もらっても全く嬉しくない絵柄である。小学生並みの絵?絵の上手い人が戦地に行ってしまいこの程度のものしか作れない状況になっていたのかも。

うちにはなぜかこれが3組もあった。

こういうパンフレットもあったので、子供にこれをかけたのかもしれない。今でいうところの学資保険みたいな物だと思われる。

「生存保険」というのが生々しいですなぁ。昔は今より子供の成人するまでの生存率がずっと低かったからこその名前かもしれないけど。私の知る限り私の親の兄弟は全員成人したようだけど。

郵便貯金70億年記念葉書とか2020年08月08日 05時57分53秒

3枚の葉書の組があった。


軍事絵ではなく、普通に絵として素晴らしいものだと思う。

これらは「郵便貯金七十億円記念」で貯金局から贈呈されたもの。
郵便貯金と言いながら、郵便局じゃないのね。

ただ、この貯金額増加には昭和15年という時代を考えなければならない。
「聖戦すでに満3年を経過し、この間新東亜建設の大理想に輝く正当国民政府の樹立を見事変目的遂行上画期的段階に到達至り候」とあるので、簡単に言えば戦費徴用のための貯金推進ということである。
そういえば昭和15年なのにまだ「候」とか使ってるのね。
ちなみにこの絵はがきもインターネットで調べると1500円ぐらいで売られている。結構な数が出たのかもしれない。

一方こちらは「サザエさん」の長谷川町子の描いた絵はがき。

表面には「軍事郵便」とある。軍事郵便というのは戦地から送られる郵便物らしいので、これはそういうときに使う葉書として用意されたものかもしれない。

それにしても長谷川町子さんはそんな時から活躍されていたのね。昭和14年にはデビューしたそうだけど、時代からしてまだ新人として扱われる時だったのかもしれない。絵柄に後日のサザエさんにつながる雰囲気が伺える。Wikipediaにも存在が書かれていない貴重な絵なのかも。

今では作り得ない絵葉書2020年08月07日 06時30分53秒

椎谷で大量発掘した絵葉書の中には、今の世では作り得ないものもあった。

例えばこれ。
シンガポール陥落というのは1942年2月のようなのでその後に発行されたものと思われる。「国債報国」というのは「国債を買って国に奉仕しよう」というスローガンで、当時の資料のいろいろなものに書かれている。
そういえば、旗に今のと同じ日本国旗(日章旗)と旭日旗の2種類が描かれているけど、日章旗は国旗、旭日旗は軍旗なのだそうな。知らなかった。だからこの絵は軍が関与して日本の領土にしたという意味になる。

こちらは「大日本帝国マリアナ群島占領地軍政庁」。「Saipan」という文字も見える。
日本がマリアナ群島を占領したのは大東亜戦争ではなく第一次世界大戦時。連合国側についた日本軍がドイツ領マリアナ諸島に侵攻して実効支配下に置いた。戦後国際連盟によって日本の委任統治領と認められサイパン島を中心に日本人による殖産興業が進められた、らしい。なので、発行時期としては当然その政庁があった時。1920年代だろうか。
インターネットで調べてみるとこれに似た絵葉書が1000円くらいで売られているようだ。

こちらはどこだかわからないけど、写っているものから推測は出来る。
・現地の子供が色黒
・水兵
・沖に戦艦らしき船影
これらから、上と同じサイパンではないかと思われる。

全く変わって、こちらは紀元2600年記念日本万国博覧会の肇国記念館とある。

らしい。昭和15年開催予定だったらしいが、日中戦争の激化により実現しなかった。嘉納治五郎が奔走して決定までこぎ着けたが実現しなかった旧旧東京オリンピックが1964年に実現したのと同じく、1970年に千里万博として実現した、ということになるのだろうか。

絵はがき1つでも歴史;当時の社会情勢がわかるのが面白い。私は学者になるべきだったなあと思う今日この頃。人生にやり直しはきかない。若者よ、良く考えて選択せよ。

昔の比叡山案内2020年08月06日 06時27分49秒

今度は昔の比叡山案内が出てきた。

いつのものだろうと思ってよく見ると、裏面に小さく昭和13年とある。戦前だ。

ここで注目すべきは琵琶湖の西側の鉄道線。湖西線?違う。湖西線の開通は昭和49年。ここに書かれているのは江若鉄道。今の湖西線とほぼ同じ場所を走っていた私鉄で、昭和44年に廃止されている。
名前は聞いたことあったが、実際地図に書かれているのを見たのは初めてだ。これで車両の写真でもあればよかったのだが。

更に良く見ると、出町柳からの叡山電鉄は鞍馬電車と書かれている。当時の正確な名称は鞍馬電気鉄道。京福になったのは昭和17年なのでそれより前だ。今の叡山電鉄は京阪グループだけど当時は関係ない会社だった。

京阪は三条までしか開通してない。出町柳開通は1989年だからもっとずっと後の話である。

叡山ケーブルは昭和元年、坂本ケーブルは昭和2年開業なのですでに描かれている。ケーブルが開通したので「これを廻る京滋の完備せる交通網」とつながって観光しやすくなったということだろう。

空中ケーブルというのも見えるが、現在は存在しない。昭和3年に開業したが、大戦中に廃止されたままなくなったそうな。今でも山には廃屋が残っているようである。

昔の地図って見ていると面白い。

地図としては東京、樺太、満州~朝鮮のも出てきたので機会があれば出してみたい。

歴史的文書2020年08月05日 06時10分31秒

発掘した書面をつらつらと見ているとこの1枚が目にとまった。
(読みやすいように画像加工済み)

色々調べつつ文面を読み解いてみた。

徴臣等(しんら) 謹(つつし)で上陳す 去月二十三日 朝鮮なる 我公使館を同国暴徒の
襲う所となり 花房公使を始め駐在官史 かろうじて退去 英艦の救護
を得て同二十九日長崎表に達せらるる云々 その為の死傷数多くこれあり(有之)
赿(おそい)諸新聞紙上に散見す ああ朝鮮の我に無礼を加える茲(ここ)に
数回 然れども 今般のごとき甚だしきはあらず よっ(因)てこれ再び公使を発せられ
これ(之)に戦艦数隻を付けせられしと聞き 果たして然らば一旦彼れが不審の
を詰問せられ事 機に依っては御征討あるべき(可有) これは必然の義と奉り愚行そうろう
依って此の節柄の天機奉り伺う度 就(つ)いては兵備の如きは充分御厳整は
これあるべくそうろう(可有之候)得共 著し事をここに訴えるの日に至らば 臣等また不肖と雖も(いえども) {傍観座視
するに忍びず 仰ぎ}願わくば誅征の御用途に応じ奉り万に一つの御国恩を
報酬支度このたび奉り懇願そうろう 色々の裏事情御洞察 しかるべく(可然尢)その筋に御執奏
くだされたく(被下度) とりわけ(尤)西南事変に従軍せし者その他有志輩も夥多 
これあるべく そうらえども(候得共) とりあえず(不取敢) 臣等より上陳仕置き候なり」

{}の間は多分削除を意図していると思われる。原文では書かれた文字の上に○が書かれている。「不審の廉」=理由、執奏」=取り次いで奏上すること。

誤字もしくは現代とは異なる表記があったり、昔の独特の言い回しがあったりして、短い文章ではあるが解読には時間がかかった。誤字に関しては、前後の文脈から解釈して書き直した。文字解析と言い回し解析には電子辞書が役に立ったと書いておこう。

何の事件に関するものなのかは年号が書かれていないので解析に難儀したが、「朝鮮」「公使館襲撃」「花房公使」で調べてみると明治15年 7月23日に起こった壬午軍乱に関するものらしいとわかった。

詳しくはリンク先のWikipediaに任せるが、そこに「日本国内では朝鮮に対する即時報復説が台頭した」とあるので、この文面もその1つかもしれない。うちのご先祖もそうすべきということで文書を書いたということだろう。ただ、これがここにあるということは、書いたけど提出はしなかったか削除分を抜いた清書版を送ったかいずれかだと思う。

歴史的事実に関する書面が見つかったのは、書面解読に対して意欲の源になる事であった。

もっとも、今書面原本は全てお寺さんにお預けしていて、写真に撮ってあるのはごく一部なのでこれから先どんどん解読したら発表する、というわけではないけどね。そもそも江戸時代の文面は達筆すぎて読めないし。

当時としては長寿2020年08月04日 02時45分14秒

椎谷はその昔は県庁があった場所だし、日本三大馬市が開かれるほど有名な場所であった。そのため明治天皇の北国巡行でも立ち寄りがあった。明治天皇が休憩した場所とか飲んだ水とかという碑が集落内に残っている。

さて、その巡行の時に80歳を超える人には金25銭の恩賜が与えられた。その書面。
「今般 今上天皇 北国御巡幸に付き 八十余歳の者一同に恩賜の時 金二十五銭 (名前)87歳 右 下賜 候のこと 明治11年10月」。
87歳というのは当時としてはかなり長命だと思う。うちの一族の中では、私の知る限り一番の長命。その後は誰もその血を引き継いでないなぁ(T_T;)。

椎谷馬市に関しても資料を探しているのだけど、これが全く見つからない。写真も書面も。なんか意図的に隠されているような気もする。当時馬といえば軍馬なので機密だったのかもしれない。「馬市に行った」とか「馬市記念」というものは見つかるからあったことだけは確かなんだけど。今回見つけた1000枚近い写真乾板を全部調べれば1枚くらい出てくるのかなぁ。

2020/08/05追記
ここにわずかにあった。他にもあるのかなぁ。見てみたい。

歴史上の有名人との関係2020年08月03日 06時48分52秒

今度はこの書面。ここにある「三条実美」ってどっかで聞いたことがあると思ったらこの人だった。京都以外では知らない人も多いかもしれないけど、時代祭にはその名前があるくらいの人。
うちのご先祖様は警部補心得(これで役職名)をしていたみたいだけど、その時に賞金をもらったことが書かれている。
「警部補心得として勤務中に九州地方の騒動に際して尽力したので、その賞金40円を下賜する」。

明治13年というのは西南戦争のあった明治10年より後。実はご先祖様は西南戦争でも九州に派遣されている。当時は「西南の役」といったみたいだけど。
画像処理をしているのではなく本当にこういう模様色の紙に書かれていて非常に読みにくいのだけど、「明治十年 西南の役に徴募 巡査として九州地方守備に行きし時に所持せし記念手帳」と書いてある。そのまましばらく向こうに居たのかもしれない。この手帳には椎谷からの全出兵者氏名や当時の椎谷周辺の人口状況なども書かれていたのだけどそれは別の機会に。

賞勲局というのは現在でも相当の部署が内閣府にあり、政府からの勲章を与えるところと思えば大体あっているか。Wikipediaによると初代局長が三条実美。そこから賞金をもらったということを示す資料としてこれには価値があるかもしれない。

柏崎県・椎谷県2020年08月02日 06時32分21秒

今回の蔵発掘では母方のご先祖の江戸末期から明治初期にかけての書状が大量に発見された。なぜ母方のものがあるのかはわからない。蔵があったので保管していたのだろうか,、それとも母方の家に何かがあって避難したのだろうか。その中には椎谷藩の歴史をさらに明らかにする資料も数多くあった(と思う)。

例えばこれ。
「父(名前)家督 相違無いことを下賜候事」ということで、ご先祖が父親から家督を相続することを許された書面だと思う。

ここを見ると新潟の廃藩置県の経緯などがわかるが、廃藩置県は1871年1年の間に2回行われている。一度目は7/14(旧暦)に椎谷藩が椎谷県になっただけで、2回目の12/7には柏崎県に合併されている。1876年には新潟県に合併されているので、椎谷県があったのはたった5ヶ月間、柏崎県でも5年間ほどしかない。なので、この柏崎県からのこの書状は結構珍しいものと言えよう。ちなみに、柏崎県庁は今の柏崎市中心街ではなく椎谷の中にあったらしい。昔は椎谷が中心だったと言うこと。石碑があるらしいので、今度行ったときに確認しよう。

これを発見したときには廃藩置県という歴史の1ページを垣間見た気がして驚いたというか喜んだ。これで椎谷県のがあればよかったのだが、残念ながら単独の書面としては見つけられなかった。ただし、椎谷藩の歴史を調べた資料の中に名前はあった。
この資料は大正2年に椎谷藩に関する調査結果を関係者に聴取してまとめたもの。これを読めば藩主を中心とした歴史がわかるのだけど、それに関しては別の機会に。

相阿弥流2020年07月29日 05時19分29秒

今度は「相阿弥流」。これが何であるかは、次のページを見たらすぐわかった。

生花の流派だ。現在も存在するみたい。
「秘歌」とあるので、門外不出だったのかもしれない。これも私には読めない。一種の暗号文よね。

文章の最後に、書いたと思われる人の署名と花押があった。読めないけど。

その後のページには代表作であろうか、絵図が並んでいた。


裏表紙には署名もあった。
これを持っていた人の名前だろうか。
うちの母方のご先祖様は椎谷藩の家老だったらしいので、弓はもちろん華道も覚えておかなければならないことだったのかもしれない。茶道の書面は見つからなかったけど。戦車道?ありませんて(^_^;)

日置流2020年07月28日 05時40分58秒

今回の発掘で出てきた書面の1つ。
日置流」と書いて「へきりゅう」と読む。和弓の一流派。いろいろな派に分かれているらしいが、この書面がどれに当たるかはわからない。
上から4文字目の漢字が読めない。「暇」(ひま)に似てるんだけど、部首が「日」じゃなくて「目」だし、仮に「ひま」だとしても「暇名」という単語がない。現代では使われない漢字なのかもしれない。
「巻上」というのは「上下巻の内の上巻」という意味ではない。現代には使われない言葉なのか国語辞典に載ってない。古語辞典にもないので一般的用語ではないのかもしれないが、他の書物でも書かれているので、当時は使われていたことは間違いない。おそらくは「もともとは巻物であった」という意味ではなかろうかと思う。

内容はこのページから始まる。
最初は茶道か何かかと思ったけど、ここに「射手」とあるので弓だと想像できた。細かいところは私には読めないけど。

一番最後のところ。65か条あるということと、書かれた日付が書かれている。
最初に書かれたのが寛永19年(1642年)で、最後の署名が嘉永5年(1852年)とあるから、実に200年間は継がれてきたことになる。この書面自体は最後に摸されたものだろう。「在判」というのは、「原文ではここに花押が書かれている」という意味らしい。そこからも、この書面が写しであることがわかる。最後は花押でなく印になっている。

実はこの書面にはもう1つ対になったものがあった。それがこれ。

射し方を歌にしてみた、ということだろうか。

これには過去の日付がなくこの1つだけだったので、最後に写した人が内容から作ったものかもしれない。「歌で覚えよう」という感じか。

この流派の研究をしている人には喉から手が出るほどほしい資料・・・になるのかな?表紙を見ればわかると思うけど、虫食いは多少あるけど、保存状態は極めていいと思う。全ページ開けられるから。おいおい読んでいこうかと。
(C)おたくら編集局