大阪古絵葉書新カラー編(2)2020年09月24日 17時15分49秒

今度は道頓堀。
梅田駅は見事なカラーだったが、なんかこれは建物は見事だが旗は旧カラーよりかはマシだけどベタ塗りしたような感じも残っている。

新カラー版は白黒版の画角に近いし、看板などもほとんど変わってないような気がする。
道頓堀があまり変わらなかったのか、時代的それほど離れていないのか。

大阪古絵葉書新カラー編(1)2020年09月23日 10時35分06秒

大阪の古絵葉書を更に調査すると、より精度の高い?カラー写真版が出てきた。
色の付き方は、現代の写真はともかく、ポスターなどのカラー印刷と比べてもそう遜色はない。
少なくとも前回紹介のこの似非カラー版
とは雲泥の違いだ。印刷技術が急速に進歩したのがわかる。
もっとも、写真としての精細感は白黒が一番だけど。
一体いつごろのものだろうか。大阪駅の駅舎は同じだし、市電の車両もトロリーポールの本数や形状からして同じだし人力車がいるのも同じなのでそれほど離れているとは思えない。

この写真では推測しかねるので、他のものでも見てみよう。

大阪古絵葉書カラー編(4)2020年09月13日 06時11分28秒

大阪天保山。
天保山と言えば今は海遊館で有名な場所だ。かつては日本一低い山(ただし人工)だったが、最近2番目になったらしい。

文言には四国瀬戸内海や別府へ行く船が出ているように書いてあるが、現在も一応客船桟橋はあるもはあるが、それらへ行く物はないんじゃなかろうか。私も大阪から船でそれらに行くときにここから乗ったことはない。


大阪市庁舎。
これは3代目の庁舎。現在は御堂筋は淀屋橋の近くに4代目の庁舎が出来ており、これは解体され残っていない。

大阪市庁舎を大阪の観光場所とするなら、ここより今も残る中之島公会堂(正式名称は大阪市中央公会堂で大正7年竣工)の方を出した方が良いんじゃね?と思うのだけど、この絵葉書が発行されたときはこちらの方が出来たてほやほやだったのかもしれない。3代目市庁舎竣工は大正10年なので、この絵葉書の発行はそれ以降と言うことが分る。白黒版より5年ほど後だ。

大阪今昔では「中之島」の章にわずかに記述がある。白黒編で出てきた大正橋、難波橋の名前もある。
-----------------------------------------------------------------------
「中之島」
-----------------------------------------------------------------------

 大淀の流れが、悠々と大阪の市中に注ぎこみ、毛馬をすぎ、川崎をすぎ、錦城の天守をうつして大きく屈折するとき、忽突として中之島剣先は、この大川を二つに引裂く。
北なるは川幅ひろく流れゆるやかな堂島川、南なるは両岸やや迫って水勢つよい土佐堀川となる。この二つの川は、はるか十五六丁も川下の、端建蔵橋[ハタテクラバシ]の下でふたたび落合う。すなわち、中之島の尽きるところである。

 その中之島を胸骨と見て、あたかも肋骨のごとく左右の川へのびている橋は、川上から天満橋[テンマバシ]、天神橋、難波橋[ナニワバシ]はべつとして、北(堂島川)に鉾流橋[ホコナガシバシ]、可動堰[ダム]、大江橋、渡辺橋、田蓑橋、玉江橋、堂島大橋、上船津橋、船津橋、南(土佐堀川)に栴檀木橋[センダンノキバシ]、淀屋橋、肥後橋、筑前橋、常安橋[ジョウアンバシ]、越中橋、土佐堀橋、湊橋があり、そして尾骨のごとく端建蔵橋があって川口につらなっている。今、その橋々の解説だけしても、茲にたいてい詳しくはつくせない。

 かりに淀屋橋の上に立って、土佐堀川の上流をながめたとして、天満橋は見えないが、一番上に見えるのが「天神橋は長いなあ、落ちたら怖いなあ」と、いとも合理的なうたいかたで当時の童謡にもある天神橋。まん中のが難波橋。一番手前が栴檀木橋[センダンノキバシ]である。この橋は、筆者にとって忘れられないものがある。まず我流にこの橋からはじめる。

 古い地図を見ると、大正以降に架かった可動堰[ダム]や土佐堀橋、上船津橋、鉾流橋はべつとして、この栴檀木橋は、書いてあったりなかったりする。元禄元年以前に架橋せられたものであるが、たびたび火災や洪水に遭って流れ、この橋だけはいつも等閑に附せられているかたむきがある。現に明治十八年の大洪水に流失して以来、大正二年まで架設されなかったくらいである。

 ずっと昔には、この橋はただ、中之島の突端にある備中成羽五万石、同檜原二万石、美作津山十万石の蔵屋敷への通路であった。そのころの中之島の尖端を山崎の鼻といった。すなわち備中成羽は山崎主税助義厚で、山崎殿の鼻というほどの意味で、蔵屋敷が廃止になり、このあたり一帯が遊覧の地になってからも、久しくそう呼びならされていた。この山崎の鼻に埋立地が出来て種々の興行物や山雀の芸当、犬芝居、軽業などがかかり、料亭もあり、篠崎小竹の友人の持家がそこにあり、田能村竹田が泊まって、水明楼と名づけたという伝説もあった。山崎の鼻にさらに鼻が出来た、鼻から鼻が出たというので、ここを風ひき新地と呼んだ。

 明治の末、そこには橋がなかった。そこには、裁判所や憲兵屯所の建物を取はらってひろびろとしたあとへ、現在の市庁舎のところに中之島公園が入口をひらき、正面にローマ寺院を思わすようなマリシャンオーダーの大円柱がそそり立ち、青さびたドームの三層楼の巍然とした大阪府立図書館を中心に、夜はアーク燈がかがやき、夏はビヤホールもある大阪唯一の市中公園であった。筆者は曽根崎に住んだので、夏の夜などよく祖母の背に負われて、この公園に涼を求めた。祖母は公園をぬけて、土佐堀川のほとりに川風をしたって逍遥しながら、いつも

「昔はここに、せんだのき橋という橋があってなあ」

 祖母は子守唄の合の手に、いうのであった。

「橋の下に、ぎょうさんのたのきがいたんや。そして通る人をだましたもんや。百匹も、千匹ものたのきがなあ。それで、橋の名もせんだのき橋というのんや」

 古い大阪人は、狸をたのき、狐をけつねと呼んだ。油揚の入ったうどんはけつねうどんで、粋[イキ]に、信田[シノダ]などともいった。

 千匹の狸の話に怖えながら、背中にちぢこまって寝た孫をゆり上げゆり上げ、祖母は大江橋を北へわたって帰って行った。

 その後、大正二年、岩本栄之助が私財百万円をポンと投出して造った大阪中央公会堂が起工された時、その公会堂の横正面に、新しい橋が架けられたのである。当時は、筆者ももう小学校の四年生で、橋柱の字は読めた。

「お祖母さん。あんた、間違うていまっせ。あの橋は栴檀の木橋で、せんだのき橋やおまへん」
「そうやったかいな」

 祖母は、おだやかに笑っていた。栴檀の木を、せんだのきともじって、即興的に背の子に話してきかせる。祖母は、そんな面を多分にもっている人だった。しかし、そんなことには気もつかず、少年は、たしなめるようにいった。

「第一、あんな川に狸がいるなんて筈はあらへん。訝[オカ]しいと思うていた。狸なんてもんは、山奥にいるもんだっせ。街のまん中に、狸はいまへん」

 祖母の顔から、笑いの翳が消えて

「幸さん」

 じっと、少年をみつめるようにした。

「狸は山奥にいると、かぎりまへん。どこにでもいます。そして、人を誑します。山奥にいる尻尾の生えた狸より、まち中[ナカ]にいる尻尾のない狸の方が、よっぽど怖い。あんたも、気をつけんといかん」

 栴檀木橋を南へ渡ると、南北の筋を栴檀木橋筋とも、略して栴檀筋ともいう。その栴檀筋の高麗橋の角に農工銀行がある。筆者はやや長じてから、親戚の功利家に乗ぜられ、先祖から伝わった家や土地を沈め、農工から金を借りて与えたことことがある。親戚は巧みに肩を抜いてしまったが、筆者はいつまでも農工に苦しめられ、半年賦償還の金を夫婦していうにいわれぬ苦労をし、半年に一度、かならずこの橋を渡って農工へ通った。そんな時、いつもせんだのき橋の話を思い出して、祖父や祖母にも、おろかな自分が恥ずかしくてならなかった。

 栴檀木橋といっても、栴檀の木で造ったのではない。この橋詰に、往古大いなる栴檀の木があって、神功皇后還御の時、艦[フネ]をつなぎたもうたという伝説によるのである。

 中央公会堂の建設費百万円を大阪市に寄付しておいて、ピストル自殺をした岩本栄之助は、当時著名な北浜の株式仲買人であった。彼は公会堂の建築中に、当時の第一次世界対戦を永続しないものという見解の下に、弱気一点張りの売方針に終始し、大正五年十月十七日に至って、再び起つべからざる窮地に陥って死んだ。が、彼が自殺して二月を出でずして、世界の情勢は一転した。もう二ヶ月を売りつづける粘着力があったら、と、惜しまるる人の一人である。

 その一つ上流の難波橋[ナニワバシ]、何がゆえにこの橋頭に巨大なる獅子の像があるのか、筆者は寡聞にして知らぬ。石橋だから獅子がいると、長唄もどきで片づけるわけにも行かない。現在は大阪一の近代調を誇るこの橋が、実は大阪最古の橋であり、行基菩薩の架設したものという。栴檀木橋の一つ下[シモ]の淀屋橋は、寛永年間、淀屋二代个庵が、米相場に群集する人々のために、自費をもって架けたので、そのまま名づけて淀屋橋といった。

 淀屋橋とまっすぐに、堂島川に架けられたのが大江橋である。もっともこれが直線化したのは、北区の大火に焼失後、架替えの時からであった。

 大江橋の一つ下[シモ]の橋は、渡辺橋である。

 俊成卿の夫木集にもある通り、一橋にして三名ありという。現在はその三名を三つに分けて、難波橋、大江橋、渡辺橋とべつべつにしているが、もとはこれ一つであった。場所は太平記にもある通り、現在の天満橋のあたりであろうか。行基のかけた難波橋のあとに、大江の岸の名をとって大江橋が架せられた。そのころはこの川にこの橋一つ、天満郷へ渡るところから、渡辺橋の別名があったのである。

 渡辺橋から一つおいて、玉江橋がある。

^^玉江橋から天王寺が見える さても不思議な玉江橋 ありゃりゃこりゃりゃ さあさよいやさ

 と大阪独特のおんごくの唄にもうたわれる通り、やや反り橋のこの橋の中ほどに立てば、行く手の真南に、天王寺の塔が三重まで見えたという。現今のように高層建築物が無く、さえぎるものが無いのだから、見えるには見えようが、真南に見えるのはいかにも不思議で、天王寺はあきらかに玉江橋から巽のかたに位する。

 一筋におがみたまへや玉江橋
  あらとうとやのとうと念佛

 当時における、不思議の一つであった。

 はしの話しはこれで打ち切り。とうてい、はしばしまでは行届かぬと御容赦を乞う。

(後略)
-----------------------------------------------------------------------
ということで、大阪古絵葉書紹介はカラー編もおしまい。次は東京にするか、京都にするか。東京は全然土地勘がないから本当に絵葉書載せるだけになるけどね。

大阪古絵葉書カラー編(3)2020年09月12日 05時59分00秒

住吉神社。
今は住吉大社というのか。住吉神社と言えば海の神様で、全国の海の近くに存在するが、この大阪の住吉神社が総本社であるそうな。

明治の初めまではこの反橋は人間は渡れなかった。全国の神社に反橋はあるが、多くは神様が渡る橋と言うことで、人の通行は出来ないようになっているはず。京都なら上賀茂神社にもある。
住吉神社ほど反り返ってはいないが。新潟は弥彦神社にもあったなぁ。

住吉神社の橋は明治の末には渡って良いことになったようで、ということは、この写真もそれ以降の物と言うことになる。

大阪今昔にも記述がある。
-----------------------------------------------------------------------
「住吉神社」
-----------------------------------------------------------------------

 住吉名所や名物をよみこんだ歌謡は、古来たくさんにある。中でいちばん有名なのは、^^高砂やこの浦舟に帆を上げて・・・の謡曲「高砂」であり、つづいて伊予節のそれであるが、面白いのは地唄の「住吉詣」であろう。

 伊予節については、ここにあらためて掲げるまでもないが

^^堺住吉 反り橋わたる 奥の天神五大力 おもとやしろや 神明穴から大神宮さんをふしおがみ 誕生石[セキ]は石をつむ 赤前だれが出てまねく ごろごろせんべ竹馬に麦藁細工につなぎ貝 買わしゃんせ

 素描の素描なら、このうた一つでこと足りるかもしれない。それに堺住吉といいきっているのは面白い。

「住吉詣」の方は、地唄の中でも新味に富んだもので、歌詞を見てもわかるように、明治時代の作である。貫之の歌を枕にして、

^^道しらば摘みにもゆかん住の江の 岸におうちょう恋わすれぐさ ここは難波[ナンバ]の車どめうさ忘れ草つまましと ただ一こえの笛の音に のりて出でたつ思うどち 語らうことも名に高き 阿倍野のやしろ天下茶屋 はしりすぎつつ巻たばこ すいきらぬ間にいさぎよく 着くや心も住の江の 四つのみ社ふしおがみ はまに出づればあまの子が 拾うはまぐりあさり貝 したたみがいのしたしくも やよまてしばし言問わん ものいう貝のさくら貝 いざやひろわん家づとに 妹に見せまし子安貝 世のうきこともわすれ貝 かいある御代のすみよしの 岸のひめ松ひめ松きしの 岸の姫松めでたさ

 後半は貝づくしになって陳腐だが、巻たばこすいきらぬまにいさぎよく、着くや・・・というあたり、いかにもその作詞の時代をものがたって、ほほえませる。

 長唄の雛鶴三番叟に採り入れられた住吉も、うつくしい。その他、清元や常盤津にも散見する住吉は、ことごとくきれいだ。

 古は、住吉の海はちかく、現在の高燈籠の下まで汐がよせたらしい。高燈籠もそのための燈台である。朱の社殿、翠の木立、白砂青松の住吉は、いまなお昔をおもわせるが、海は次第に埋立てられて、三韓渡航の砌り、社頭の浜からお舟出になった御模様などしのぶべくもない。

 住吉公園の池はコンクリートになり、五色の睡蓮がうかび、花壇のつつじはチューリップに席をゆずり、すっかり近代色をみなぎらせている。美しく整理はされたが、もはや雅びかな、住の江の岸の姫松いく代へぬらん、という趣きはなくなった。

 しかし、四社のやしろは、今もなお国宝として、健在である。

 住吉神社へ詣って、誰でも異様に感じることが二つある。一つは、四つの社のならび方、一つは、石舞台と楽舎の位置である。

 普通、四社ある場合、たいていは横列にならび、したがって四社合拝の礼をとり、神饌を相嘗にしている神社もある。が、この住吉神社では、第一本殿から、第二、第三と縦列に配置され、第四本殿だけが、第三本殿とならんで、横にはなれている。

^^四社のお前で扇を拾うた ぬしにあうぎの辻占や・・・

 と、雛鶴三番叟にあるが、この歌詞は調子だけのもので、四社のお前とはいいにくい。住吉の四社がなぜ、一社だけべつにあるかということは、古来いろいろにつたえられている。少ししらべて見たが、適確な記述が見当らなかった。

 思うに、神功皇后御出征の砌、住吉の社(その頃は住吉とはいわず、海宮[ワダツミノミヤ]と称した)に、海上の安穏を祈られたが、途中、舟、風波に遭って海にめぐり、すすむこと能わず、その時海宮の祭神、表筒男[ウワヅツオ]、中筒男[ナカヅツオ]、底筒男[ソコヅツオ]の三神の教えにしたがい平かに海をわたりたもう、と日本書記にあり、御凱旋の
上、海宮の社域をひろめ、御造殿のこともあったのではあるまいか。一の神殿の祭神は底筒男命、二の神殿は中筒男命、三の神殿は表筒男命と三社を縦におき、第四の社はのちに造営になり、祭神は神功皇后であるところを拝察しても、三社とはべつに祠られたのではあるまいか。古事記にも、墨江之三前[スミノエミサキノ]神也とあり、もとは三社であったように考えられる。

 次に、石舞台の位置である。石舞台は、いうまでもなく祭神にささぐる舞楽を奏する舞台で、どの神社でも、本殿の前方にあるのが例であるが、ここのは、一の神殿の右側、廻廊の外にあって、北向きに舞い奏することになっている。以上の二つは、だれの目にも一寸奇異の感をいだかしめるので、書きそえておく。石舞台の位置の何故なりや、御教示を得たいと思う。

 住吉に詣でて、もっとも印象的なのは、反り橋と、高燈籠である。境内無数の大小の石燈籠も目をそばだたしめるが、これは、石清水八幡や、春日神社の古き、夥しきには一籌を輸す。ただここは、海[ワダツミ]の神なので、そのほとんど全部が、各地廻船問屋や船主からの寄進である点、異色がある。異色といえば昔から、

「書は貫名、詩は山陽」

 という、その二人の揮毫なる石燈籠が、仲よく、参道をさしはさんで向い合って立っている。山陽の方は署名はなく、阿州藍玉大阪積の字だけであるが、貫名の方は、永壽講の字のほかに、八十五、貫名海屋と署名されている。
どちらも見上げるばかり立派なものが二基づつならんでいるからすぐ分る。反り橋を、北へよったところである。

 そういう例外はあるが、石造美術としての価値からいえば、前述の石舞台の方が、はるかに高い。創立は不詳であるが、一説には、楽舎と共に豊臣秀頼の寄進であるという。鑑識家が、慶長ころのものであろうと、もらしたのを聞いたことがあるし、信仰家の秀頼なら寄進しそうである。殊に当社には、有名な秀吉の願文が保存されている。父子二代の信仰を、この摂津一の宮にもっていたのも面白い。秀吉の願文とは、大政所の病気平癒を祈願したものである。

 猶以命儀三ヶ年、不然者二年、実々不成者三十日にても憑被思召候
 今度大政所殿煩於本腹者、為奉賀壱萬石可申付之条、弥可被抽懇祈事専一候也
六月廿日 秀吉花押
住吉

 これが全文である。猶以て命の儀、三年、それも出来ない相談なら二年、実々ならぬものならば三十日でもよい・・・というあたり、太閤の真情が吐露されている。

 高燈籠については、摂津名所図会に

 出見の浜にあり。夜ばしりの船の極[メアテ]とす。闇夜に方角を失うとき、住吉大神をいのればこの燈籠の灯ことに煌々と、光あざやかなりとぞ

 と記述があるほどで、筆者は、この燈籠の下、花月亭に一年がほど棲んでいたので、つれづれに、よく登って見たが、此方からの眺望は大してきかない。埋立と煤煙で、海も見えなかった。

^^住吉さまの高燈籠 のぼって沖をながむれば・・・

 という俗謡があるが、卑猥でここには載せられぬ。

 反り橋は、亀戸の天神の三倍くらいある。
 太宰府のよりも大きい。

 この反り橋は、子供の時によく渡った。のぼる時より、下りる時が怖かった。しかし、どの神社にかぎらず、反り橋は神橋で、俗人のわたるべきものではない。反り橋があれば必ず反り橋のかたわらに、平橋がある。平橋は、反り橋の渡り得ぬ人のためにあるのではなくて、反り橋は渡ってはならぬのである。反り橋には、のぼり易いように、
足がかりの穴がつけてあるが、あれは俗人のためではなく、渡御の時、御輿に供奉する人のためであり、あがけ(足掛)、くびすえ(踵据)と称する穴である。穴かしこかしこ。

 住吉の川柳には、とるべきものが見当らぬが俳句ともなれば、何しろ貞享年間、社前において西鶴が、一昼夜に二万三千五百句の大矢数をこころみたというところだけに、今もなお句碑にのこる

 升買ふて分別かわる月見かな 芭蕉

をはじめ

 たがうゑし松にや千代の後の月 大江丸
 松苗やゆくゆく月のかかるまで 几菫
 松風の声も添へけり夏神楽         翠鴬
 この上は車一輛ほととぎす         淡々
 若みどり神の浜松ひねたれど 来山
 反り橋に胸のつかえる蛙かな 貞佐

 などのよい句がある。

 住吉の名物は、麦藁細工の住吉踊りをはじめ、いろいろある。中に、茗荷[ミョウガ]が数えられていないが、忘れ草、忘れ貝、忘れ水・・・もの忘れの神様かと思うほど、忘れ物が多い。

 道しらばつみにも行かむ住の江の
  岸に生ふてふこひわすれ草 貫之

 いとまあらば拾ひに行かむ住吉の
  岸によるてふ恋わすれ貝 不知

  住よしの浅澤小町のわすれ水
   たえだえならで逢ふよしもがな 範綱

という有様である。

 埋立地には二業指定地もあり、ものいう花もあり、我を忘れ、家を忘れる人もある。

-----------------------------------------------------------------------

大阪古絵葉書カラー編(2)2020年09月11日 06時32分51秒

カラー版にだけある所の紹介。
三越呉服店。

これのことかなと思うのだけど。大阪市北区は北浜にあった三越。
実はこの写真も新しくはなくて、2000/8/15に撮影した物。当時はこの近くに務めてたのでしょっちゅう見てたんだけどね。阪神淡路大震災の時は窓ガラスがたくさん割れて大変だった。

現在この建物は存在しないようだ。会社としての三越自体も単独では存在しない。百貨店業界にはつらい時代。特に今年はそうだろうなあ。

手前に見える古い建屋は「コニシ株式会社」の大阪本社。あのボンドのコニシだ。改修こそすれ今も存在する。GoogleEarthで探すなら、「道修町1」とこの建屋で探すと良いだろう。

大阪今昔には直接の記述はないが、この道路の先にある「高麗橋」については章があって、その中にわずかに「三井呉服店」の名前がある。それだけなので省略。

大阪古絵葉書カラー編(1)2020年09月10日 19時45分52秒

前回までに紹介した大阪の古い絵葉書だが、なんとカラー版が存在した。
カラーと言っても今のようなカラー写真ではなく、白黒写真の一部に手作業で色を乗せたような感じのものである。
子供が上から色を塗ったような、お世辞にもきれいな塗り方だとはいえないけど、当時はこれでも画期的だったのだろう。
写真は同じ・・・と思ったら違う。時代的にちょっと(大幅ではないのは、まだ楽天地があることなどから分る)後なのかひょっとして別会社のものだろうか。それにしては似すぎているけど。文言も異なる。

白黒のものと同じ場所のものは写真での紹介だけとしておく。白黒版の紹介順とは異なる。
千日前は楽天地の写真で置き換えられている。白黒にあった千日前はなくなっている。


天神橋は全く違う画角になっている。



なので、カラー版と白黒版が全く同じではなく時代を反映したのか変更があったりなくなった場所もある。一方で、カラー版には白黒版にはない場所がある。その紹介は次回から。

大阪古絵葉書(8)2020年09月09日 06時05分20秒

前に紹介したこのシリーズだけど、抜けがあったので追加。

「築港」。築港とは今でいうところの大阪港である。
車体は写ってないけど市電の線路は写っている。そもそも大阪市電はここ築港の桟橋から花園橋西詰までが明治36年に開通したのが最初である。

また大阪今昔から。
-----------------------------------------------------------------------
「大阪築港」
-----------------------------------------------------------------------

 大阪市営電車の全市開通(といっても幹線一本だけ)を見たのは、明治四十一年で、翌四十二年天王寺公園で祝賀会を催した。

 春咲く花の 梅田より
 乗出す電車は 心地よく
 曽根崎新地 打すぎて
 行くや堂島 中の島
 ・・・ ・・・

 今、口誦んでも、涙のこぼれそうな歌を、我々子供は意味も分らず喚きうたった。

 しかし、大阪市電はこの歌のごとく梅田を起点として工事されたのではなく、最初は、明治三十六年第五回内国勧業博の閉会後、当時市が巨費を投じて工事をすすめつつあった築港事業進捗の状態を世に紹介するためと、その埋立地の開発に資するため、九条花園橋を起点として築港桟橋まで、単線三里一分四厘を開通したのがはじめで、のちに、二階付電車というのも、この線で初お目見得したのである。

 市はそういう目的で開通した電車であったが、近区域の人々はこれを、「魚釣り電車」と称して、又は「涼み電車」と称して珍重した。そのために、朝夕だけ賑い昼間はガラアキであった。二階付電車などを出し、民心を喚起しようとしたのは、所期の目的に添わしめんがためであったろう。

 この電車は,やがて明治四十一年、「春咲く花」の梅田から、「水は十字に流れたり」の四つ橋へ、四つ橋から松島へのびた路線とつながって、大阪市電第一期線となった。

「電車がいよいよ四つ橋まで伸びましたで」
「市岡新田にも、ソロソロ家が建ち出しました。大阪も広がりましたなあ」

 これで、ようやく魚釣り電車の名が、消えたのである。

 しかし、筆者など、その時分からそろそろと、祖母につれられて、築港見物かたがた、夕方から涼みに出かけ、桟橋の上で氷水などたべた。転た今昔の感である。

 米国総領事ハリスは、安政四年の下田条約以来、開港場の第一に、始終大阪を挙げ、これを要求しつづけた。しかし、大阪は皇都に近く、しかも京都には攘夷論が旺んであったし、海岸そのものも設備が不十分であったため、我が交渉委員は大阪開港の困難をのべ、度々折衝したが、ハリスはあくまで応ぜず、この際は大阪開港を回避しても、やがて時代はそうせずにはいられないのだから、速かに開港した方が賢明であろう、と、説いている。

 数度の折衝の結果、幕府は文久二年十一月十二日、大阪開港と決定した。しかし、大阪は江戸と同条件、すなわち米国人は、商人だけが大阪に出入り出来ることになったので、厳密な意味では開港ではなく開市であり、その代り兵庫港が開港される事になった。

 もっとも大阪開港を要望したのは米国だけでは勿論なく、露国も英国も仏国も等しくそこに眼をつけていた。露国のごときは早くも嘉永六年にその要求を示し、プーチャーチンが大阪に来航したのも、そのためである。然し幕府は文久二年の開港を慶応三年十二月七日に延期する事に成功した。が、外国側の期待は実に大きく、期日に先立って開かれたし、その実現のためには下関償金の放棄も辞せず、というほどの熱心さであったが、兵庫港のみは期日に開港式をあげたが、大阪は開港に至らず、明治維新となった。

 のち、慶応四年七月、新政府によって大阪開港の太政官布告が出て、ひいては川口に居留地の永代借地権が設定されるに至ったが、明治初年、開港場として神戸(兵庫)に著しく立ちおくれたのは、そのためであるといえよう。

 大阪が開港場として神戸に立ちおくれたのはそうした事情にもよるが、六甲・摩耶の峻嶺から直ちに海に迫る、港としての最良条件を具えた神戸に比し、淀川の三角州[デルタ]で成立した遠浅の大阪では、地勢としても一籌を輸さざる得なかった。そのためにも、大阪は長い間、神戸港を通じてのみ、荷物の集散を見ていた。神戸港こそいわば
大阪の玄関で、大阪は玄関の無い家でしかなかったのである。ここに於て、必然的に起ったのは、大阪築港問題である。

 大阪築港問題を、最初に提唱したのは、大阪府知事渡辺昇である。渡辺昇は明治四年、盛岡県知事から大阪府権大参事に栄転して、三月にして県知事に昇進した逸材で、のちに男爵を授けられている。もっとも築港の急務であることは、大阪市民の間にもすでに其処此処で叫ばれていたが、これを総合し、緒につかしめたのは渡辺昇である。

 この時築港計画は、安治川通り一帯の地を開鑿し、川口居留地の西南、富島町を中心として、干潮時に吃水十尺以下の船舶を出入せしめようというのであった。今にして思えば児戯に類したと嗤われようが、当時にあっては勿論大事業であり、経費も二百五十万円を計上した。

 渡辺昇は、この経費を毫も国庫の補助に頼らず、大阪の港は大阪市
民の手によって作る、という建前でかかった。まず、今橋二丁目鴻池善右衛門方に築港事業促進事務所を設けて、各区長等をして市内の富豪巨商を説いて寄付金を募らせたところ、さすが町人の都大阪で、またたく間に二百万円と、古金銀百万円、合わせて三百万円の資金の調達が出来、いよいよ政府の許可を得て工事に着手する運びとなった。

 この時の築港計画を、たたき潰したのは、後の内務大臣(第一時桂内閣)その時の大阪府権大参事として赴任したばかりの内海忠勝であった。もっとも築港計画は、大阪市民の総意であったとはいえ、中には尚早論者も、反対論者もあり、維新日浅く、社会経済も安定していない折柄、御用金的に商工業家の資金を吸収固定させるのは不策だと
の説をなす者もあり、内海忠勝はその急先鋒という形になった。

 しかし内海の中止説は、もっと親切な観点に立っていた。内海は明治四年特命全権大使岩倉具視に随行して、欧米の地方制度を調査してきた新人で、前任神奈川県知事の時、横浜港拡張工事を完成せしめた。彼は側近の人に語って曰く、

「僕が大阪府に赴任するのは、築港計画を中止させるためだ」

 と漏らしたという。その決意以て知るべしである。

 内海忠勝が、政府の内命を帯び、権大参事として赴任し、徐ろに渡辺昇を説き、官民の間に奔走して、一先ずこの計画を中止させたのは、将来日本商工業の中心地たるべき大阪が、今にわかに比較的小額の工事費で、姑息な築港をなすは、あたかも将来の大阪港に向って自ら暗礁を築くようなものである。よろしく時と計画を革めて、十分の考究の上に立って起工するに如かず、というのである。

 事実、この第一次計画が、中止になったことは内海忠勝のいう通り、大阪のために幸いしたともいえる。干潮時にわずか十尺というのだから、まことに小規模なもので、大袈裟に築港工事などというより港湾修繕工事の程度であるが、のちに安治川、尻無川、木津川尻一帯を埋立て、大築港を現出したにかんがみる時、反対に安治川を開鑿して小築港工事を施工していたら、全く大阪港に暗礁を築く結果になっていたかも知れない。

 第一次築港計画は、かくして瓦壊したが、このことが端なくも市民の築港観念を助長して、その後重立った商工家の会合の時など、築港の話の出ないことはなかった。

 その後、第二次築港計画が提唱されたのは明治十九年で、主唱者は当時の大阪府知事建野郷三であった。

 この時の設計は、可成り進んだものであって、湾内の水深を干潮時十七尺以上とし、工事費も四百万円を計上し、着々準備にとりかかった。しかし、この時も埋立でなく、開鑿計画であった。が、この計画は、建野知事が五大鉄橋事件その他で、甚しく民心を失ったので、工事には着工せず他へ転任してしまった。その後へ代って府知事に就任したのが西村捨三である。この人は、後年市民の懇望によって築港事務長になったくらいの人であって就任以来熱心に唱導し、各種の後援団体さえ組織されたが、実現に到らず転任となり、山田信道が襲任した。

 真に築港事業が軌道に乗り実現の緒についたのは、山田信道知事の明治二十五年以後であって、これが第三次築港計画である。

 第三次築港計画は最初の規模こそ現在の大阪湾とは比較にならないが、設計として大差なく、もはや消極的な開鑿工事でなく、安治川、木津川両川の間を中心として天保山沖に南北両突堤を設け、一大埋立地を造り出して、ここに新市街を開かんとするもので、すなわち現在の発展を予想しての立案であった。これは、二十五年一月の市会で満
場一致を以て、まず築港測量費一万三千六百円の支出を議決し、ここに大阪市という公共団体の事業として本格的な発足を見たのである。

 大阪市では、市の有力者にしてその道に通じたるもの十九名を選んで、市参事会の委員と共に、築港に関する百般の調査を依頼し、二十九年その調査を終え、市会では総工費を計上して政府に請願し、政府ではこれに修正を加え、三十年三月十八日衆議院を、同じく二十四日貴族院を無事通過し、三十年九月八日正に設計書を認可された。この
時、認可書を受取ったものは、先に第一次築港計画を阻止した内海忠勝で、このとき山田信道の後任府知事として赴任したのである。奇しき因縁である。

 この工事費総額二千二百五十七万四百円。その中、一千九百万円までが市税と公債で賄い、国庫補助金は、わずかに百八十七万円を仰いだにすぎなく、他は埋立地売却等の雑収入である。かくして、三十年十月十七日、小松宮彰仁親王の台臨をこうむり、野村逓相、樺山内相列席の下に、安治川口に築港起工式を挙行した。その盛大さは、

 「安治川の水を逆流せしめたり」

 と、ある。

 その後、築港事業には公債利子を合すれば一億以上の工事費を投じ、今日の姿とはなったのである。殊に、多少の国庫補助を仰いでいるとはいえ、主として自治団体の力で経営している点、さすが商人の都、経済の都市だけのことはあると、誇り得ると思う。

-----------------------------------------------------------------------

で、その「安治川口」。
安治川は1684年に河村瑞賢が幕命により淀川・大和川の治水対策の一環として開削された。その河口にも港があるのだが、築港がどちらかというと軍艦など大型船の停泊用であるのに対し、こちらは中小の船が荷物を下ろすところという感じである。

ここについては大阪今昔には記載がない。

ということで、復活シリーズも終わり・・・ではないのだ。次回を待て!

大阪古絵葉書(7)2020年08月26日 06時51分42秒

誰もが知っている大阪城。
天守閣が写っていないのは、ここが「四師団の兵隊さんが居やはる」とあるように、軍用地で中には入れなかったからと思われる。いや、この当時はまだ天守閣は再建されてなかったのか。

「ここは馬場」とあるが、現在の地図には該当する場所名がないため、これがどこから写したものかはわからない。
大阪城の歴史を見るに、鳥羽・伏見の戦いの前後で二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋門を除く城内の殆どの建物が消失したとあり、明治に入ってからは陸軍が敷地を使った。和歌山城から御殿の一部が移築されたり軍によって門が復元されたりしたような。でも軍施設だったため戦争末期の空襲で甚大な被害を受けたみたい。
写真には3つ建屋が見えるが、江戸の火災から残った「二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓」のいずれかだろうか。

更に文面には「昔太閤さんが天下を取りやはった時に築いた」とあるが、実際には江戸期の大阪城は徳川が豊臣大阪城を徹底的に潰した上に建てたものなので間違っている。当時はそのような事実はまだ一般人は知られていなかったことかもしれないけど。


これは造幣局。桜の通り抜けで有名。
過分にして行ったことがない。もちろん今年は中止だった。来年も怪しいかな。
写っている建屋はおそらく今と違うと思う。

またも大阪今昔から。
-----------------------------------------------------------------------
「造幣局の桜」
-----------------------------------------------------------------------

「さあ。いよいよ明日[アシタ]から、造幣局の通りぬけが出来[デケ]まっせ・・・」

 私たちは、長年[ナガネン]、巷をつたわるその声々をきくことによって

(あぁ、今年の春も、もうまん中やなあ)

 と、身にも心にもしみじみと、闌春を感じるのであった。だから私たち、いわゆる北大阪に住んだものにとって、造幣局・・・といえば、春のシノニムほどに、駘蕩たるものをうけとるのである。造幣局と聞いただけで、僕が陶然とするからといって

(さては彼奴は、子供のことから金勘定がうまかったんだな)

 などと早合点してはならない。造幣局には、大阪名物の一つに数えられる桜があるからである。僕はいま、この稿を書きながら、その桜並木を想いみることによって、そこはかとなき故郷の春を、身ちかく感じてさえいる。

 造幣局の桜は、たしかに大阪名物の一つであった。だからといって、その桜並木が、雲かとまがうばかりでもなければ、京の祇園の桜のような名木があるわけでもない。
それはただ、粲然たる春の陽の光をかぎる、雑踏の塵埃をあびながら、たよりない花を梢につけて、とびとびにならんでいるだけである。僕は、まえに書いた桜並木という字が、甚だふさわしくないことを感じるので、取り消してもよいくらいだ。満身の花影どころか、満身の砂ぼこりである。そんな桜をさえ、もとめて群集せねばならぬほど、大阪は、花に乏しい町なのである。

 桜に乏しいばかりではない。吉助の牡丹、梅屋敷の梅、桃山の桃、野田の藤。もっとも、まだ若い僕は、子供の時分にすでにそれらを見る事は出来なかった。が、ことごとに大阪自慢の祖母の話によってすら、大したことはないのである。まったく、大阪は花に乏しい町である。

 その代り、女のためには、道頓堀に五座の櫓が立ちならび、人々は花見弁当のかわりに芝居弁当を桝[マス]の中でひらく。男のためには、二月の堀江の木の花踊り、四月の新町の浪花踊り、南地の芦邊踊り、五月の北陽の浪花踊り、春はまず踊りからひらく。あくまで、大阪と大阪人は

 ”花より団子”

 であるらしい。祖母もまた、

「いやいや、造幣局はやっぱり花の名所や。桜の花やなしに、黄金色の花の名所やがな。人はおおかた、その匂いをかざがきに,ぐんしゅうするのやろ」

 と、いった。そういう洒落をいう祖母は、やっぱり生粋の大阪人であったのだ。

 造幣局のほかに、大阪で桜の名所を求めるならば、新町の九軒の桜、土佐の稲荷--もう、捜[サガ]さねばならない。順慶町の憲兵屯所の桜はなくなったし、天王寺公園の夜桜は、およそ低俗で数えられない。では、煤煙以前は何うかとしらべて見る。

 天保板の「懐中重宝花電車」に

「さくらは、どうがん寺、どうせん寺、天王寺、安井、南たなべ、尼寺、りゅうせん寺、ながら、さくらのみや、しん町」

 とあり、文久板の「大阪繁昌詩」には

「安井天神、新清水、天王寺、隆専寺、生玉神社、鶴満寺、長柄、九軒」

 があげられている。これとて大したことはない。

  清水へ祇園へよぎる桜月夜
   こよひあふ人みな美しき

 の晶子女史の感懐もわかなければ

  花の雲かねは上野かあさくさか

 の雄大に比すべくもない。

 右の天保板のうち、さくらのみやとあるのは、淀川の水が、蕪村の「春風馬堤曲」で名高い毛馬の閘門をすぎ、大阪の西北端へかかろうとするところにある。桜の数はすくないが、長堤にならぶ花は、水にさかしまの影をうつして倍加する。規模は小さいが、花の中に宮居もあり、なるほど昔はここだけは花見の趣きをつたえたであろう。屋形船などうかべた古い版画を見たこともある。

 造幣局は、その桜の宮の対岸に、明治三年に構築された。明治三年四月、新政府は画一純正の貨幣を新鋳することに議が定まり、その鋳造所を、淀川沿岸川崎の、旧幕府の米蔵跡と決定した。

 現在の行政機構から考えると、だいたい、造幣局が東京になく、大阪にあるのは何う考えてもおかしいのである。が、これは当時、帝都を大阪にさだめようという議が、相当有力にあったことを物語るものとして面白い。その頃は、造幣局と呼ばず、川崎造幣寮といった。造幣局と改称されたのは明治十一年一月十一日である。

 起工は明治二年、英国からウォートレス技師を聘して、ことをあたらしめた。材料は、香港の旧英国造幣局の鉄材を輸入し、煉瓦は広島と堺に新しく窯を築いてつくらせ、幾多の困難と、当時における百万両の巨費をもって明治三年十一月に竣工を見た。その最初のころは、貨幣の鋳造ばかりでなしに、硫酸、曹達なども製造した。

 しかし、この日本最古の石造建築や、煉瓦づくりの屯営所は、今はない。僕は小学校の頃、校外教授でその鋳造所と屯営所を参観した。又ある春の日、祖母につれられて見た宏壮な煉瓦塀と、その塀の外の一本の桜の老樹を忘れない。桜は折柄の川風に、パッと淀の水のおもてをすれすれに舞った。又の日、僕は、長柄の墓地へまいる途中、堀川の監獄の前を通った。あの見上げるような煉瓦塀の前にも、一本の桜の木が花をつけて、わびしく風に散っていた。煉瓦塀に散る桜--僕は今、いずれとも、わかなくそれを思い出しているのである。

 造幣寮の竣工と共に、対岸が桜の名所であるところから、東岸西岸の桜、遅速同じからずと洒落たわけでもあるまいが、その寮内に桜を植えた。そのころは染井吉野の全盛であったから、それを植えた。はじめは、市民鑑賞のためではなく、寮員の眼をたのしませるためであったのだろう。それが、市民のために「造幣局通りぬけ」ということになったのは、何時からのことか。とにかく、この通りぬけは、最初、造幣局が切符を発行して、桜花縦覧を許可したのだから、いかにも官僚式である。その頃の、ザラ紙の社会面からひろって見ると

○造幣局の桜花は昨今が満開につき、明十九日より三日間局内桜花観覧のため、天満橋の表門より源八渡しの裏門へ、諸人の通行を許さるる由(明治十七・四・十八)

○一昨日の紙上に、造幣局桜花縦覧を諸人に許さるる由掲げしが、右は全く切符を所持する者に限る故、同局にては一昨日数多の切符をそれぞれ配付せられたりと(明治十七・四・二十)

 ここらあたりが、通りぬけのはじめではあるまいか。それから二年たつと

○桜の花に名だたる川崎樋の口の堤は、一昨日よりチラホラ掛茶屋も出来たるが、盛りの桜花を見るはまだ数日を経る事ならん。しかし、鶴満寺の糸桜はボツボツと咲き初めたるをもって、瓢をたずさえ行厨を手にし、同所へ杖をひくもの絶えずありとなん(明治十九・四・三)

 は、その付近の桜の様子をうかがえるし

○川崎造幣局構内の桜花も、已に満開に近きをもって、今十五日より十七日まで三日間、毎日午前十時より午後四時まで、人民に縦覧せしめらるるという。但し道筋は、天満橋北詰川崎の通常門より河岸に沿い、源八渡し場の柵門に通り抜けを許さるるよし(明治十九・四・十五)

 さすがに官僚で、夜桜は終始許さなかったらしい。しかし、もうその頃は入場切符の事については記載はなくなっている。

 造幣局は、当初においては旧幕時代のお米蔵跡を敷地として建築されたが、のちに官舎などもふえ、次第に敷地や建築物の増加と拡張を見た。東は淀川なので、西へひろがったのはいうまでもない。拡張した地域は、川崎町の天満与力屋敷あとと、川崎東照宮あとである。

 現在、造幣局消防器具置き場になっているあたりが、大阪武鑑にもある東天満邸図の明地で、その西隣りの造幣局南官舎七十二号舎が、中斎大塩平八郎の、いわゆる洗心洞の址である。平八郎が事を挙げる日、すなわち天保八年二月十九日の朝、大阪城代土井大炊頭が巡見の途中、大塩邸の斜め向い東町与力朝岡助之丞の邸に入って小憩する予定であった。その時を砲撃して首途の血祭にする手筈であったのが、城代は予定の時間に到着しなかった。事をあせった連中は待ちきれずに、時前に大砲を打ちこんだ。砲弾は朝岡邸の庭の槐[エンジュ]の木の幹を裂いただけで、何の効もなかった。しかし、この槐の木を裂いたことは、後年一つの役には立った。木は、今でも市電空心町より桜の宮橋に至る舗道にあって、その裂け目の洞[ホラアナ]は、道路を洗ういろいろの器具の納屋[ナヤ]代りに役立っているなどは、洗心洞の遺跡にふさわしい。

 造幣局員の社交機関、泉友倶楽部の玄関わきに、織田有楽斎茶席の沓脱石がある。
家康も親しく足跡を印したものとして、川崎東照宮をここ建てる因をつくった由緒のある石である。

 造幣局を書くなら、桜と共に泉布観[センプカン]を逸することは出来ない。

 泉布観は、造幣寮の応接所として起工されて、明治四年九月に出来上がった。煉瓦づくり二階建で、五十六本の丸柱は、ことごとく花崗石の一本もの、階上のシャンデリアも、英国製のカットグラスを使用し、当時としては最上級の豪華建築であった。

「それ、ここが、天皇陛下のお泊りになった泉布観だっせ。よう覚えておきなはれ」
「センプカンて、何んのことやのん?」
「さあ、おおかた宿屋の水明館、大正館ちゅうのと同じやろ」

 祖母も、泉布観の名のよって来るところについては、孫に適当な説明は、なし得なかった。

 明治天皇が、みたび大阪に行幸あらせられたのは、明治五年六月四日で、伏見より御乗船になり、川崎造幣寮前桟橋より御上陸、行在所たる造幣寮応接所へ入御あそばされたのである。そのときはまだ、ただ応接所とばかりで、館号がなかったのを、特に、陛下より御下賜のおもむきを仰せ出された。陛下は側近に向って館号について御下問があったので、随行者の一人であった日下部小内史は、その夜、はげしい風雨をついて心斎橋三木書店へおもむき、いろいろの参考書を買い求めて考えた上

「宝貨行如泉布」

 の句にもとづいて「泉布観」をこそ、と奉答したのによるという。泉布とは貨幣のことである。そして、三條右大臣染筆の扁額「泉布観」を御下賜あらせられた。

 泉布観は、その後明治十年、三十一年、再度の御駐輦に、光栄いよいよかがやくものがある。明治二十二年、造幣局より泉布観を宮内省に献納したが、大正五年、改めて大阪市に御下賜あり、現在では御臨幸記念館として、保存しているものである。

-----------------------------------------------------------------------

建物というか、制度自体が現存しない。一応現在で言うところの大阪高等裁判所だけど、建屋は全く異なる。大阪地方検察庁のHPによると、この建屋は大正5年に建築された3代目庁舎のようだ。これでこの写真群の時代がほぼ確定できた。

「何百年も経ったら大阪中が西洋建ばっかりになるやろと思いまっさ」とあるが、何百年どころかこの後50~100年でおおかたそうなった。

大阪古絵葉書シリーズも、今回で一旦終わり。でも、大阪の絵葉書は1種類じゃないので他の風景が出てきたらまた書くかも。

大阪古絵葉書(6)2020年08月25日 06時46分55秒

「阿弥陀池」。


ここも行ったことないので「大阪今昔」におまかせ。
---------------------------------------------------------------------
「阿弥陀池」
---------------------------------------------------------------------

 灌仏会のことを、大阪では八日日と呼ぶ。誤植ではなく、八日日、すなわちようかびと読む。四月八日、釈尊の誕生会で、大阪市中は、物干台に竿を立て、そのいただきに山躑躅[ツツジ]の花を高くかかげる。釈尊にかかげるのか、日天子にささげるのか、詳らかではないが、この花のことを、てんとう花と呼ぶところを見ると、陽にささげるのであろうが、何故四月八日にそれをするのか、筆者は知らない。

 とまれ、五月の鯉のぼりに先立ち、大阪の町の瓦々に、てんとう花の立ちならぶ時、陽春の紫雲は、その花の上にただなわる趣きで、燗春を感じさせる。

 この日、堀江の和光寺は、灌仏会のほかに、お景物の植木市でにぎわう。

 和光寺は蓮池山智善院と号し、信濃の善光寺の末になっているが、本家争いをするなら、此方が先といいたいところである。

 本堂の北に、池があり、推古天皇の御宇に信濃の人本多善光がこの池から異様な光が発しているのを見て、いわゆる閻浮檀金の阿弥陀仏を得て、これを奉じて国へかえり、厚くまつったのが善光寺である。その昔、物部守屋が、仏像を投じた難波の堀江がここで、その尊像が出現ましましたのだともいう。阿弥陀ヶ池の名は、そこから出たので、和光寺というより阿弥陀池の方が通りよく、御[ミ]池橋、御[ミ]池通りなど、それに関連しての地名である。

 寺名に、蓮池山という山号があるように、この池は蓮の名所で、池の中央に放光閣がある。幼い日、この橋の上から放し亀をして、蓮のうてなの上に亀がのったのを見て

「あの亀さんは、生きたまま極楽や」

 といった祖母の笑顔を忘れない。そのころの阿弥陀池には、まだ「浪華百景」の趣きがのこっていた。

 和光寺といえば、春の灌仏会もそうであるが、さらに盆の十六日、ここの仮設舞台で踊られる、トツテレチンチンの踊りはなつかしい。慶祝の踊は、エライヤッチャ、盆踊はトツテレチンチン・・・それで通じるのが大阪弁である。

「盆踊見に行こか」

 などとはいわない。

「トツテレチンチン、行こか」

 それこそ、省略といおうか、何んといおうか、飛躍的である。気ぜわしない。そして、何処となくおどけている。それが、大阪弁である。

^^それ西瓜、それ真瓜[マッカ]、それ焼け茄子[ナスビ]、食いたい食いたい・・・

 と、すぐ食べもののことをうたい

^^かんてき(七輪の関西弁)割った、摺鉢わった、えらい叱られた、可笑してたまらん
・・・

 と、あわてもんをうたう。

 この盆踊の振りと三味線は、和光寺だけでなく、大阪中同じであるが、和光寺の仮設舞台で見聞きするのが、いちばん盆踊らしい情趣がある。

 ここでは、筆者の見たかぎりでは堀江芸妓が、そろいの浴衣がけで奉仕した。それがまた一部の人気をそそって、評判であった。今里、住吉、新世界などの新興の遊里が、夏の夜の浮気心をそそろうと、しきりに堀江のこれを倣ったが、いずれも落莫として、和光寺という背景を持つ堀江の盆踊には遠く及ばなかった。

 盆といえば、堀江の廓はどこよりも美しくよそおう。いわゆる盆燈籠から出発して、さらにそれを雅かにした絹行燈が、そこここに立つ。それには楯彦も書けば、恒富も書く、知道人も描けば、艸平も描く。柳の葉かげにほのかな美人画など、いかにも風情があり、トツテレチンチンの帰りに、それからそれへと見てあるく絹行燈は、夏の夜の景物の中でゆかしいものの一つであった。もっともこれは、グッと近年のことである。

 堀江を書くなら、どうしてもここの遊里について、数行を費やさぬわけには行かない。何故なら、ここは他の遊里とちがって、大阪の港をひかえて発展したからである。

 往古の堀江とは現在の大川の称呼であったらしいが、現在のところを堀江と称するようになったのは、元禄十一年、河村瑞賢が堀江川を開鑿してこのかたである。ちょうど長堀川開鑿のあとで長堀川、西横堀川、堀江川のFの字をうらから見た形に、徳川後期、大阪が全国物産の集散地としてもっとも繁忙を極めたころの、主要な港が、この
F字形の堀川であった。港々に女ありという、その港を背景として発展したのが、堀江であったのである。そして堀江は、その遊里を中心に市[イチ]の側[カワ]の芝居、角力場などが出現、そのころの大きな盛り場となったのである。

 遊里について、あまりくわしくは知らないのでくわしく書くことは避けるが、花に乏しい浪花の春に魁けて

 浪花津にさくやこの花冬こもり
  けふをはるへと咲くやこの花

 の歌にちなむ「この花踊」が、京の「都をどり」にも、南地の「あしべ踊」にもさきがけて、解語の花を咲かせた。

(後略)
---------------------------------------------------------------------

天王寺の釣り鐘。
天王寺と書いてあるが、存在したのは四天王寺境内。
四天王寺を建立した聖徳太子1300年周忌の記念で作られたそうだ。聖徳太子は622年没とされているので、1300年周忌というのは1921年=大正10年だ。しかし、実際に鋳造されたのは1903年。
世界一の梵鐘だったそうな。しかし、鳴らされることはなかった。
というか、ヒビが入っており鳴らせなかったというのが真実らしい。
そして大東亜戦争末期の金属供出で回収されてしまい、なくなった。使われることのない鐘だったので寺としても惜しくはなかったみたいだ。回収前の法要ではつかれたようだけど。詳しくはここ参照。


茶臼山。
大阪で低い山5つの1つ。標高は26mしかない。山というより古墳で
Wikipediaにも「茶臼山古墳」で載っている。

文言には「この池の水はホンマにきれいだっせ」とあるが、今の写真を見るととてもそうは思えない。昔はきれいだったのかもね。

大阪古絵葉書(5)2020年08月24日 06時35分45秒

天満の天神社。
天神祭の歳神をお祭りする神社である。もちろん現存する。上方落語協会のある天満天神繁昌亭はこのすぐ近くのはず。一度行ったことがあるようなないような。

また大阪今昔から紹介。
-----------------------------------------------------------------------
「天満[テンマ]の天神」
-----------------------------------------------------------------------
 毎月二十一日のお大師巡り、二十五日の天神詣りは、大阪の老幼(幼はつれられて詣るのだが)男女にとって、現在[イマ]もなお相当の賑いを見せている行事であろう。

 天神社はいうまでもなく菅公を祀る社で、大阪には二十五の天神の社がある。天神の御縁日が二十五日であるところから、二十五社を定め(或は選び)、かの三十三所の札所めぐり、八十八ヶ所の大師巡りになぞらえてはじめられたもので、二十五社詣りの巡路は古く「難波丸網目」に見えている。

 その二十五社の中でも、何といっても第一に指を折られるのは、もちろん「天満の天神さん」で通っている府社天満宮である。

 そもそも「天満の天神」というのは、訝しいのであって、天満も天神も、菅公を神格化しての称呼である。天神とは、菅公の霊、雷となる、すなわち天神なりというのと、観世音三十三身の中大自在天神とあがめたりというのとあり、天満というのも天神記の「その瞋恚の炎天に満ちたり」からとも、虚空見[ソラミツ]大和の虚空見[ソラミツ]、すなわち天満であるともいう。が、何にしても、「天満の天神」はおかしいのである。

 筆者も子供の時、天満にある天神社だから「天満の天神」やな、と思っていた。だから「天満宮」やなと思っていた。祖母が話してくれたところによると、菅公西遷の砌、この地に輿を停められ、いよいよ発輿の時、あふれるような星空が、遠流の道をてらすかに見えたので、「星光、天に満つ」ともらされたのによるので、この近くに北野、梅田などいう地名のあるのも、すべて菅公に因んだのだというのであった。「星光、天に満つ」は美しいと思った。それをそのまま小説の中へ書いたことがあるが、今でも後悔していない。「瞋恚、天に満つ」よりも、「星光、天に満つ」の方が美しいにちがいないのだから。

 村上天皇の勅願によって、この地に天満宮が創祀されたのは、天暦年間の古いことで、のちに天満宮の近辺を天満とよぶようになったのである。

 が、それにしても天満と呼ばれる地域があまりに広すぎる。明治四十二年の天満焼けは、堀川の付近から出火し、曽根崎、堂島、北野、梅田、福島を焼き、肝腎の(はおかしいが)天満宮の周囲は罹災をまぬがれている。それでいて「天満焼け」である。
事実、その類焼地域三十六万九千四百三十八坪の大半が、天満の地名で呼ばれていたのである。筆者は、曽根崎に生れたが、なお江戸堀や島の内の親戚からは「天満の子」とよばれ、祖母は「天満のおばん」であった。

 由来、大阪の地は三郷に分けられた。いわゆる大阪三郷で、三郷とは南組、北組、天満組の三つである。そして天満組とは大川以北全部、大川以南が、南北両組である。
(南北両組は本町筋が境界である。長堀川を境に、船場と島の内であろうと説する人があるが、島の内の発達はずっと遅い。幸田成友氏もそう書かれている)大川以北は、天満組であって、天満があるから天満の天神やろ、と思うのも決して無理ではないのである。なお、天満宮は、「てんまんぐう」である。「てんまん」が「てんま」とつまっ
たのは、よくある例で、詰るべきを延ばし、延ばすべきを詰めて呼ぶのは、珍しくない。地名のみかは、露地は「ろうぢ」であり、行燈は「あんど」である。

 府社天満宮の行事は、毎月二十五日の月例祭のうち、一月の梅花祭、七月の船渡御祭、九月の秋祭は、この社の三大祭とされている。俗に梅花祭を初天神、船渡御を天神祭、秋祭を流鏑馬祭というが、その方が分りやすい。ほかに八月一日の歌替の神事、九月十三日の秋思祭が有名である。

 中でも初天神と、夏祭はことのほかの賑いである。

 大阪落語の「初天神」は、その賑いを巧みにつたえる。従五位並河寒泉の詩に

  馬郷祠外淑光新 賽客繽紛拂紫塵
  聞説芳梅神所愛 風流尤協浪華春

 というのがある。梅花祭、初天神をうたったものである。

 この日、身動きならぬまでの群集の中へ、真向微塵にねり込んで来る宝惠駕の追憶。宝惠駕は、一月十日の十日戎にも出る。これは南地五花街の紅裙が、研をきそって今宮戎へ繰込むが、初天神には地元の曽根崎新地から紅白の手綱も華美に乗りつける。ここでは、宝惠駕を宝永駕の字で書く。宝永年間、この社へ色駕で詣でたのが起源であるという説によったものである。紅白の縮緬でかざり立てた駕に、定紋うった色とりどりの座布団をしき、名入りの提燈かけ、紅白だんだらの曳綱を曳かせ、駕夫の姿も伊達に、駕側には幇間、末社が肌ぬぎの長襦袢といういでたち。もっともこれは南の宝惠駕と異るところはないが、最初の駕(一番駕といって、南地では一流中の、しかも若い美しい妓が乗るので、富田屋、伊丹幸、大和屋など各席この金的を射ようと競い合う)には献米をつみ、どの駕も梅花祭に因んで屋根に梅の一枝をさしている点、初天神の方が雅びかであった。南地が若い、美しい妓を主にし、曽根崎が優雅な人柄に重きをおいたのは、土地の色が出ていて面白かった。初天神の宝惠駕、天神祭の八処女[オトメ]は、芸妓もまんざら捨てたものでもないと思わせた。但し、それは昔ありし日の夢、もうそんないい芸妓は見かけない。

(後略)

-----------------------------------------------------------------------

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)。

申し訳ないが私は行ったことがないので、全く知らないのでここは「大阪今昔」におまかせしておく。
---------------------------------------------------------------------
「生玉[イクダマ]はん」
---------------------------------------------------------------------

 東京人には、

「三社様」

 であり

「山王様」「権現様」

 であるところを、大阪人には、

「生玉[イクダマ]はん」

 であり

「御霊[ゴリョウ]はん」「座摩[ザマ]はん」

 である。横丁の八百屋は「八百留はん」であり、宮殿下は「宮はん」である。そとは一視同仁であるが腹の中ではちゃんと区別がついている。そこが大阪である。

「秩父の宮はんと、同じ汽車やった」

 と、畳屋[タタミヤ]はんなみにいいながら、光栄の涙をボロボロながしているのが大阪人である。

 それはさておき、高津の坂を南に折れ、現在市電の通っている上六への道を少し上ると、南に生玉の北門を仰ぎ見る急坂がある。これが「摂津名所図絵」にも「浪華百景」にものこる真言坂である。

 生玉はんは「生国魂神社」として、現に官幣大社であるが、明治初年の廃仏毀釈までは宮寺[ミヤデラ]と称し生玉十坊という寺々がここにあった。いづれも真言宗の寺ばかりであったので、この坂を真言坂と呼んだのである。昔の生玉はんは、北門に十坊があり、東門(馬場先)に名高い遊所があって、賑った。

 先日筆者は、高津神社の境内で毒を呷って死ぬ女の話を書いて、聖地を汚すというような意味で某先輩から叱られた。皇居のあとでも、高き屋の跡でもない高津さんではあるが、やはり地名から来る神聖感からであろう。生玉さんの方は、近松の「生玉心中」「心中宵庚申」はじめ、半二の「お染久松」にも、情死の場面にしばしば使われている。それを逃げて、高津神社にしたのが、運の尽きであった。

 生玉馬場のさきの茶屋は、元禄以降の遊所として甚だ有名である。門前の「生玉の蓮池」をめぐって色茶屋、出合茶屋が立並び、てすり越しに池の面へ、ポンと投込まれる紙屑を、麩と間違えて突つく蓮池の鯉が、巧く描かれている画があった。何しろ、浄瑠璃になった心中では「曽根崎心中」が最初でも、その作者の近松門左衛門も「匁は氷の朔日」の中で

 世の中に絶えて心中なかりせば、三世の頼みもなかるよし、誰かりそめしこの契り、音に聞きくは生玉の、それが始めのだい市之進、つれて懇の名も高き、大和の国や三笠山笠屋三勝・・・

 とあり、生玉がどんなに遊所として早くから聞えていたか分る。

 しかし、これらの繁栄は文久年間に、すでにすっかり衰微していたことが、少年詩人田中金峰の「大阪繁昌詩」によって知ることが出来る。

 昔日は繁昌の生玉祠、今この地に遊びて却って相疑う、雀羅設けんと欲して粛粛甚だし、歓ずる事莫れ人間盛衰あるを・・・云々」

 そして、祖母に聞くとこの辺、茶屋、まんじゅう店、揚弓場、料理屋が立並び、繁昌大阪一であったが、「今は空しく寒鴉鳴く」と付記している。

 一面、馬場先の衰微に、一面、十坊の取払いとなって、維新当時ただ見る廃墟となったのを、明治四年五月、太政官達によって、官幣大社に列し、自今大祭を行わるる旨を定められ

 昔は春の立帰り、数十株の桜新たに神徳の光やわらげ、花下の通には貴賎太平を謳歌し、群参頓に夥しく、和楽相賑えり

 と、当時の大阪新聞に見える。昔から八重桜の名所であったところへ、更に増殖されたものであろう。そして北の造幣局、西の土佐稲荷、南の憲兵屯所とともに、大阪の桜の名所として、乏しい中に趣きをそえた。ことに篝火をたいての夜桜は、土佐稲荷とともに双絶であった。

 桜と共に、生玉の名物は前記の蓮池の蓮である。池畔に、小野お通、角澤検校、近松巣林、竹本義太夫、道喜重恭らを祀った浄瑠璃神社(先々代源太夫の寄進になった燈籠などのこっていて趣きがある)と、北向八幡宮がある。この地は、秀吉が天下静謐のため、却って弓矢八幡を北向に勧請したところが、珍らしい。

 その後、神社はやや復興したが、この蓮池の周囲は、大阪でも比びないほど汚い家が裏手を見せて、半ば朽ち曲りながら人が住んでいた。

 それが、去年の夏、七月九日、久しぶりの夏祭に参詣すると、蓮池のあたりから境内にかけて、それこそ公園のように整頓し、池の水は清冽に、緋鯉真鯉、蓮も美しく咲きさかって、びっくりした。が、さてそうなると、あの見るもいぶせき一群のあばら屋と、夏来て見ても枯れたような蓮の茎根さえ、もう一度そこに置いて見たい旧懐にたえ
かねた。追回の情は、美醜を超越してなつかしく迫るものである。

 殊に筆者の、もっとも印象にのこる生玉界隈は、明治四十五年一月、南の大火の延長で一触されたあとの、荒蕪の極の姿である。その、一望の砂河原のような生玉はんの境内に、赤く焼けさびたような金網の中に、もう鶴はいなかった。が、火事の前に見た鶴が、やはりその焼けた金網の中にいたような、錯覚がある。今橋の鴻池の庭に、庭男の持つホースから、水を浴びながら、純白の翼を陽にかがやかせていた美しい鶴と、生玉はんの痩せて薄黝く、老衰した鶴の悲しげな瞳の色と、二羽の鶴を忘れない。
病みほうけた禿鶴へ、夕陽が、いっぱいにあたっていたのを忘れない。悲しい鶴の姿であった。

(後略)

---------------------------------------------------------------------
この文にもある通り、明治45年に消失した社殿は大正2年に再建されている。大正橋で写真が大正4年以降だと判明しているが、これでも明治年間のものではないとわかる。
その後第2次世界対戦の大阪空襲で焼けている(昭和20年)ことから、ここにある社殿は30数年しかなかったので、その意味ではこの写真は貴重だと言えるかもしれない。
(C)おたくら編集局