2015年始め ― 2015年01月05日 12時53分22秒
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
・・・
京都は1日にも雪が降ってたようだけど(居なかったので知らず)、2日の夜中は大雪で開けたらこんな様子。市内でも積雪20センチ。
京都市内では少なくとも10年に一度はこういうことがあるので、積雪量自体は珍しいことではないが、夜中の間だけで一気に積もったのは珍しいのかも。しかもよく3日も気温が余り上がらず融けきらず4日もかなり残っていた、
御苑は一面白で、白大文字も美しかったけど、自転車で走るのはそれはもう大体力仕事で(2輪駆動の自転車が欲しかったくらい)、それでも上賀茂神社さんに行こうと賀茂川縁まで行くが、あまりの積雪で先に進めなくなって断念。無茶スケジュールでもほとんどやり遂げる私にしては極めて異例の判断。それだけすごかい雪だったと言うこと。翌日には行ったけどね。
ちなみに、今日5日は朝から気温が高めで一気に雪が融けている。屋根から雪の塊が大量に落ちてくるので歩くときは要注意。
ということで、今年もいろいろと書き綴っていこうかと。
合掌。
今年もよろしくお願いします。
・・・
京都は1日にも雪が降ってたようだけど(居なかったので知らず)、2日の夜中は大雪で開けたらこんな様子。市内でも積雪20センチ。
京都市内では少なくとも10年に一度はこういうことがあるので、積雪量自体は珍しいことではないが、夜中の間だけで一気に積もったのは珍しいのかも。しかもよく3日も気温が余り上がらず融けきらず4日もかなり残っていた、
御苑は一面白で、白大文字も美しかったけど、自転車で走るのはそれはもう大体力仕事で(2輪駆動の自転車が欲しかったくらい)、それでも上賀茂神社さんに行こうと賀茂川縁まで行くが、あまりの積雪で先に進めなくなって断念。無茶スケジュールでもほとんどやり遂げる私にしては極めて異例の判断。それだけすごかい雪だったと言うこと。翌日には行ったけどね。
ちなみに、今日5日は朝から気温が高めで一気に雪が融けている。屋根から雪の塊が大量に落ちてくるので歩くときは要注意。
ということで、今年もいろいろと書き綴っていこうかと。
合掌。
雪の京都(1) ― 2015年01月06日 22時58分09秒
先日の雪の京都御苑の風景。
御所の建春門。
春は桜だけど、今は雪。そういう画角。
中山邸跡、というか祐ノ井のあるところ。
とにかく今回は夜中に大雪が降ったので長く雪が融けなかった。なので、木々にも大きな負荷がかかったようで、園内あちこちで大小の枝が折れ、それどころか幹から折れる木もあった。
私が撮影していると、近い場所で「ボキッ」という音がした。その方向を見てみると、折れた枝があった。これが折れたときの音かどうかはわからないが、これくらいの枝でも折れるほどだったと言うことである。
10年に一度20センチほど積もるとは言え、今回ほど木が折れたのは、私が知る限りここ15年で初めて。
中にはこのように幹から折れてしまう木もあった。
中にはこのように幹から折れてしまう木もあった。
上の写真ではわかりにくいが、翌日雪がだいぶ融けたところで見るとよくわかる。
御苑内の木は老木も多く、特に去年からとみに弱っている木が増えているので余計に折れやすくなっているのだと思う。
上の写真ですでに囲いがしてあったと言うことは、折れたのは結構早い時間のはず。夜中監視している人が居ると言うことか。
御苑外周でも発見。
上の写真ですでに囲いがしてあったと言うことは、折れたのは結構早い時間のはず。夜中監視している人が居ると言うことか。
御苑外周でも発見。
人が歩いてたら危ないところ。
雪の京都(2) ― 2015年01月07日 21時39分33秒
御所の西南角外にある大きな木。雪が枝についてまるで白い花が満開のようで美しい。
別の角度から見ると青空も入ってなお映える。
この日は無謀にも、御苑を抜けて賀茂川沿いを走って上賀茂神社さんまで自転車で行くつもりだった。
で、ようやく御苑を抜けて出町柳駅前の端を渡るところ。上の写真からもう30分も経っている。普段なら5分で移動出来る距離。もっとも、今回はいろいろ撮影していたと言うこともあるが。
橋の上で無謀なバイクを発見。タイヤが滑りまくってなかなか進まないでいた。まあ、自転車でここまで来ている私に人のこと言えた義理ではないが、バイクの方が転倒時より危なかろうと思った。
ここから川沿いに一端降りたが、そこで羽を広げる川鵜を発見。賀茂川では時々見かける。
1羽だけではなく、複数の川鵜が同じようにしている。しかも一瞬ではなくずっと。
でも何で羽を広げているのだろうか。日光を多く浴びようとしているのだろうか。広げていると寒くないのかな?とも思ったりするが。
雪の京都(3) ― 2015年01月08日 12時50分04秒
アニメ「けいおん!」で有名になった(?)亀石もご覧の通り。
ちなみに、ここが賀茂川と高野川が合流して鴨川になる場所。
左側の手前が賀茂川、あちらが高野川。右側が鴨川。
下鴨神社は中央の中州からすぐの所、上賀茂神社は賀茂川の上流にある。
ちなみに、ここが賀茂川と高野川が合流して鴨川になる場所。
左側の手前が賀茂川、あちらが高野川。右側が鴨川。
下鴨神社は中央の中州からすぐの所、上賀茂神社は賀茂川の上流にある。
ちなみに、ここはバーベキューも花火も禁止。昔はそんなことなかったんだけど、最近はマナーの悪い奴らが増えたおかげでそうなってしまった。馬鹿共のせいで一般人の楽しみまで奪われるのは至極迷惑。成敗したい。
河原には大きな雪だるまがあった。大文字をバックに1枚。
河原には大きな雪だるまがあった。大文字をバックに1枚。
白い花を咲かせたような桜の木。雪桜とでも呼ぶべきか。京都では毎年は咲かない、奇跡の花。
一方で、こちらは雪が似合う花、サザンカ。
日本に自生出来る草木はだいたい雪に強いんだけど、海外から持ち込まれたようなものには弱い物もある。うちのプランターに植えていた植物は、葉に雪が積もって全部しおれてしまった。前日までは元気だったのに。それは今回の積雪じゃなくて前回、旧年末に雪が降った日の話で、夜中に降るとは思ってなかったので鉢を入れ損なった。気をつけなければならない。
雪の京都(4) ― 2015年01月09日 17時50分01秒
下鴨神社さんのある中州に渡る橋。アスファルト面が全く見えない。京都でここまで雪が残っているのを見たのは初めてかも。同じくらい積雪があっても、道路は雪が融けていることがほとんどだから。
そこから賀茂川の河川敷の道に降りる。ここも全く道がわからない状態。土の面で、前日はその前の日の雪(これも結構な積雪量だった)はもうなく「ここは早く融けるのだろう」と思ってきてみたがさにあらず。
でも降りたからには進めるところまで進んでみようと思う。
川面が凍ってる?凍ってるというか、流れのない部分は表面に雪が積もっている。小規模なのは京都でも見たことがあるけど、これほど広い面積では初めてかも。
対岸には大きな雪だるまが。しかし転がした跡がないので、おそらくは前々日の積雪の時に作った物が残っていたのかと。
これだけでなく、御苑内、川沿い、町中にもあっちこっちで普通の京都では見られないサイズの雪だるまなどがあった。
雪の京都(5) ― 2015年01月10日 11時08分51秒
全国女子駅伝2015 ― 2015年01月11日 19時33分28秒
今年も京都で全国女子駅伝が催された。
一月にあるとは思っていたけど、新聞取ってないので正確な日時がわからなかった。でも昨日からヘリが飛んでいるのでひょっとして思ってたら、今日だった。
TVを付けたらもううちの近所まで来るようなので急ぎ出かけた。往路3区は(道路が渡れず)残念ながら正面から撮影出来なかったので復路8区。
先頭が京都と鹿児島、その後すぐに3位大阪という順だった。
この後、家に帰ってTVで観戦。最後は大阪と京都のデットヒートでトラック勝負、しかも最後の10メートルくらいで決まるというすごい勝負だった。結局4位まで各1秒差という大接戦で、見ていても手に汗握った。
1位 大 阪 2°17′26″
2位 京 都 2°17′27″
3位 兵 庫 2°17′28″
4位 愛 知 2°17′29″
5位 鹿児島 2°17′51″
京都は残念だけど、よく頑張ったと思う。
若い人(そうでないベテランの人も居るけど^_^;)ノがんばりには気合いをもらえるねぇ。それを活かしたいもんだけど。
一月にあるとは思っていたけど、新聞取ってないので正確な日時がわからなかった。でも昨日からヘリが飛んでいるのでひょっとして思ってたら、今日だった。
TVを付けたらもううちの近所まで来るようなので急ぎ出かけた。往路3区は(道路が渡れず)残念ながら正面から撮影出来なかったので復路8区。
先頭が京都と鹿児島、その後すぐに3位大阪という順だった。
この後、家に帰ってTVで観戦。最後は大阪と京都のデットヒートでトラック勝負、しかも最後の10メートルくらいで決まるというすごい勝負だった。結局4位まで各1秒差という大接戦で、見ていても手に汗握った。
1位 大 阪 2°17′26″
2位 京 都 2°17′27″
3位 兵 庫 2°17′28″
4位 愛 知 2°17′29″
5位 鹿児島 2°17′51″
京都は残念だけど、よく頑張ったと思う。
若い人(そうでないベテランの人も居るけど^_^;)ノがんばりには気合いをもらえるねぇ。それを活かしたいもんだけど。
しばらく更新できないです ― 2015年01月12日 10時04分40秒
またWindowsが起動できなくなりました。
ブート途中で落ちてしまいます。
Paragon NTFS for MacOS X11を導入していたYosemite MacにParagon NTFS for MacOS X 12れた直後にこうなりました。これが原因かどうかは検証できていませんが、導入検討している人は要注意です。
->2015/01/14追記
Paragon NTFS for MacOS X 12はバグだらけなので導入してはいけません。ファイルコピー中にOS毎落ちまくる/コピー出来ないファイルがある/コピーした内容がおかしい(windowsでアクセス出来ない)などが多発し、とてもまともに使える状況にありません。1つ前のバージョン11がYosemiteでも安定的に動くのでそれを導入すべきです。
Windowsの修復モードを使いたいものの、「Bootcamp環境下のWindowsでは、WindowsインストールCDや修復モードで起動した時にはキーボードやマウスが一切効かない」という致命的問題が存在するため、現状再インストールしかない状況です(多分、MacにはBIOSが無いため。Bootcampではその辺りうまく計らってくれている)。
やっぱりBootcampは一般人にはおすすめできないです。
Windowsでの起動はできないものの、ドライブそのものはMacOS側から認識できるので、まずバックアップを取り、そのあと作業を開始する予定です。しかし、アプリは再インストールしなくてはいけないかもしれないし、ライセンスが絡むものはまた連絡して再発行してもらわなければならないわで、復旧にはかなり時間がかかりそうです(すでにかかってます)。
Windows側のEaseUS ToDo Backup(有償版)はBootcamp Windows環境下では、バックアップ用ディスクで起動時にキーが効かないので環境まるごと復元出来ない。なのでBootCamp環境下でのフルバックアップには使えない。一方MacのWincloneはNTFS/FATでフォーマットされたHDDには(Pagagon NTFSを導入してても)保存できないという問題があるので使ってなかった(ところがネットワークで共有された先のHDDには書き込めるので、今はそれを使ってこまめにバックアップ取り長さ作業進行中)。BootCampを使う人ならUSB-HDDは多くがそのフォーマットだろうから、それに保存できないのは致命的。
いずれも、本気でBootcampで動くものを作って欲しいと切に願います。
何はともあれ、しばらくここも更新できません。
合掌。
ブート途中で落ちてしまいます。
Paragon NTFS for MacOS X11を導入していたYosemite MacにParagon NTFS for MacOS X 12れた直後にこうなりました。これが原因かどうかは検証できていませんが、導入検討している人は要注意です。
->2015/01/14追記
Paragon NTFS for MacOS X 12はバグだらけなので導入してはいけません。ファイルコピー中にOS毎落ちまくる/コピー出来ないファイルがある/コピーした内容がおかしい(windowsでアクセス出来ない)などが多発し、とてもまともに使える状況にありません。1つ前のバージョン11がYosemiteでも安定的に動くのでそれを導入すべきです。
Windowsの修復モードを使いたいものの、「Bootcamp環境下のWindowsでは、WindowsインストールCDや修復モードで起動した時にはキーボードやマウスが一切効かない」という致命的問題が存在するため、現状再インストールしかない状況です(多分、MacにはBIOSが無いため。Bootcampではその辺りうまく計らってくれている)。
やっぱりBootcampは一般人にはおすすめできないです。
Windowsでの起動はできないものの、ドライブそのものはMacOS側から認識できるので、まずバックアップを取り、そのあと作業を開始する予定です。しかし、アプリは再インストールしなくてはいけないかもしれないし、ライセンスが絡むものはまた連絡して再発行してもらわなければならないわで、復旧にはかなり時間がかかりそうです(すでにかかってます)。
Windows側のEaseUS ToDo Backup(有償版)はBootcamp Windows環境下では、バックアップ用ディスクで起動時にキーが効かないので環境まるごと復元出来ない。なのでBootCamp環境下でのフルバックアップには使えない。一方MacのWincloneはNTFS/FATでフォーマットされたHDDには(Pagagon NTFSを導入してても)保存できないという問題があるので使ってなかった(ところがネットワークで共有された先のHDDには書き込めるので、今はそれを使ってこまめにバックアップ取り長さ作業進行中)。BootCampを使う人ならUSB-HDDは多くがそのフォーマットだろうから、それに保存できないのは致命的。
いずれも、本気でBootcampで動くものを作って欲しいと切に願います。
何はともあれ、しばらくここも更新できません。
合掌。
阪神淡路大地震から20年 ― 2015年01月17日 18時46分55秒
阪神淡路大地震から20年経った。
本当は今日、これを書こうかどうか迷ったのだけど、一応書いておこうと思った。思い出して列記。
当時私は北大阪は、千里ニュータウンの古い11階建てのマンションに1人で住んでいた。
あの日、前日までの連休を使って長野あたりまで2泊3日でスキーに行ってた。向こうも帰り道もすごい大雪で、家に帰り着いたのは日付変更線を超えてから。すなわち17日深夜だった。
そして朝、疲れているはずにもかかわらず、地震が起きる1分くらい前に目が覚めた。で、まだ早そうなのでまた寝ようかと思っている時に、下から突き上げられるような揺れが来た。
その時、とっさに真横にあった食卓の下に潜り込んだら、その後ものすごい揺れが来た。かなり長いこと揺れていたと思う。揺れている間は何も考えられなくて、とにかく頭を抱えて揺れが収まるのを待つしかなかった。
大きな揺れが収まっても、まだずっと揺れている感じが残ってた。どうもマンションがずっと振れているらしい。
机の下から出てまず部屋の中の惨状に愕然とした。あまりにむちゃくちゃなのでもう何をしたらいいかわからなくなってすぐ寝てしまった。
しばらくして寒さで目が覚めた。何時かは覚えてない。ベランダの窓は鍵をかけて閉めていたにもかかわらず、それが揺れで強引にこじ開けられて窓が全開だった。
今度は部屋の状況をちゃんと確認すると同時に、この地震がどれくらいの規模だったのかを確認するためにTVを付けた。
砂嵐。電気は来ているが画像が出ない。
TVは29型で50キロを超えるブラウン管TVであるにもかかわらず大きく動いてた。今から思えばよくラックの上から落ちてなかったもんだと思うが、いずれにせよ、大きく動いたせいでアンテナ線が外れていた。で、それをつないで写った映像にまた愕然とした。
まだ砂嵐か?思ったくらいの惨状。その後も次々と映し出される神戸周辺の様子にまさしく絶句した。(当時勤めていた)会社にはそちら方面に住んでいる友人もいたのでその安否が心配だった。
部屋の中を再確認。
TVを含めステレオは大きく移動している。枕元においてた大きなスピーカーが枕の上に倒れていて、そこにおいてあった目覚まし時計が全壊していた。もし、最初の揺れで机の下に潜り込んでなかったら、そのスピーカーは私の頭の上に落ちてきて即死だっただろう。1本10キロ*2本。ぞっとする。
その他の物も大きく動いていた物も多いが、一方で不安定なはずの細い一輪挿しが全く動かず立っていたのには驚いた。どうも、最初の突き上げ以外はある特定の方向だけに揺れ、それに逆らわないようにあったものはそのようになったようである。
会社に行こうかどうか迷うが、どうも電車は動いていないらしい。会社に電話しようにも全くつながらない。会社どころかどこにも。電話が通じたのは一体いつだったろうか、とにかく当日は休み。
マンションは、エレベーターが止まっていた。この状況がこのあと1週間以上続いたと思う。
で、外に出るとなんか足元がおかしいと思ったら、マンションの片側の地面がせり上がり、段差ができていた。5センチほどか。、マンション自身も傾いていたかもしれない。
大阪は神戸に比べれば比較的被害は少なかったが、庄内から千里〜高槻に至る地層のライン上ではそこそこ被害が出たようだ。千里には実家もあるが、隣の家の石灯籠の上の部分が飛んできて小屋の屋根が抜けたと言ってた。
友人は会社も含め皆無事だった。会社の人はその友人も含め、神戸に近い人もみな無事だったのは幸いだった。
宝塚に住んでいた友人は、家の前後の筋の家は倒壊したが、住んでいる筋だけはなんともなかったそうだ。これもおそらく地層の加減なのだろう。それでも電気・ガス・水道がダメみたいで、特にお風呂が入れないと嘆いていた。当時は大阪駅前ビルの地下に銭湯があったので、会社帰りに入って帰ると言ってた。
会社で、その後全員に避難袋が配布された。懐中電灯、ラジオ、笛などが入っていた。ヘルメットもあった。それは未だに家にある。ずっと中に入れる食料や水を交換していたが、最近ご無沙汰している。
当時も、関東圏は大地震がいつ起こっても不思議はないと言われていたが、大阪、関西ではそんなことはないだろうと思い込んでた。(スキーにも一緒に行ってた)土木関係の友人曰く、「そんな保証はどこにもない」といっていたが、まさしくそれが的中してしまったわけである。
この後、間接的にではあるが新潟の2地震に被災した。新潟中越地震では田舎の家の壁にヒビが入ったり、中越沖地震では集落内で何件かの家が倒壊、隣の家を始め、倒壊せずとも住めなくなって取り壊された家が多数、ガスが1ヶ月以上も通じなくて困ったとか、道路の通行止めが1年以上続いたとか、支援物資の菓子パン食べてて親戚が体調壊したとかあった。
そうそう、うちは東電柏崎原発に歩いていけるほどの近距離である。何かあったら即アウトである。中越地震では火災も発生した。「原発が安全」等と言っていたのは原子力の何たるかを知らない無知な連中であるが、田舎の経済的切迫はそれを度外視してでも原発を受け入れなければならない状況であった。そもそも、ほんとうに安全なら、過疎のど田舎に作るよりも効率のよい都会に作るはずである。「何かあったら危ない」は最初から、関った人間がわかっていたはずの事実である。原発は停止していてもお金がかかるし完全に安全ではない。しかも廃炉には長い時間がかかる。更に、廃棄物には処理方法がないので地下深くに埋めるしかない。そう、原発はそもそも出来損ない(見切り発車)の技術なのである。なので、止めておくより、動かしてお金を稼ぎながら、「これ以上新設はしない」「だいたい発電技術を日本の総力を上げて開発し、それと置き換える=地元に還元する」したほうが良い。
防災意識を持ちと準備をしていたとしても、地震の被害は突然来て長く影響しつづけるので負担が大きい。どうすればそれを少しでも軽減できるか。それは地震列島日本に住む人間が考え続けなければならないことなのであろう。
なんか取り留めもなく書いたが、人間、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ことがあるので、こんなことでも記憶を掘り起こしてとどめておこうと思った次第である。
合掌。
本当は今日、これを書こうかどうか迷ったのだけど、一応書いておこうと思った。思い出して列記。
当時私は北大阪は、千里ニュータウンの古い11階建てのマンションに1人で住んでいた。
あの日、前日までの連休を使って長野あたりまで2泊3日でスキーに行ってた。向こうも帰り道もすごい大雪で、家に帰り着いたのは日付変更線を超えてから。すなわち17日深夜だった。
そして朝、疲れているはずにもかかわらず、地震が起きる1分くらい前に目が覚めた。で、まだ早そうなのでまた寝ようかと思っている時に、下から突き上げられるような揺れが来た。
その時、とっさに真横にあった食卓の下に潜り込んだら、その後ものすごい揺れが来た。かなり長いこと揺れていたと思う。揺れている間は何も考えられなくて、とにかく頭を抱えて揺れが収まるのを待つしかなかった。
大きな揺れが収まっても、まだずっと揺れている感じが残ってた。どうもマンションがずっと振れているらしい。
机の下から出てまず部屋の中の惨状に愕然とした。あまりにむちゃくちゃなのでもう何をしたらいいかわからなくなってすぐ寝てしまった。
しばらくして寒さで目が覚めた。何時かは覚えてない。ベランダの窓は鍵をかけて閉めていたにもかかわらず、それが揺れで強引にこじ開けられて窓が全開だった。
今度は部屋の状況をちゃんと確認すると同時に、この地震がどれくらいの規模だったのかを確認するためにTVを付けた。
砂嵐。電気は来ているが画像が出ない。
TVは29型で50キロを超えるブラウン管TVであるにもかかわらず大きく動いてた。今から思えばよくラックの上から落ちてなかったもんだと思うが、いずれにせよ、大きく動いたせいでアンテナ線が外れていた。で、それをつないで写った映像にまた愕然とした。
まだ砂嵐か?思ったくらいの惨状。その後も次々と映し出される神戸周辺の様子にまさしく絶句した。(当時勤めていた)会社にはそちら方面に住んでいる友人もいたのでその安否が心配だった。
部屋の中を再確認。
TVを含めステレオは大きく移動している。枕元においてた大きなスピーカーが枕の上に倒れていて、そこにおいてあった目覚まし時計が全壊していた。もし、最初の揺れで机の下に潜り込んでなかったら、そのスピーカーは私の頭の上に落ちてきて即死だっただろう。1本10キロ*2本。ぞっとする。
その他の物も大きく動いていた物も多いが、一方で不安定なはずの細い一輪挿しが全く動かず立っていたのには驚いた。どうも、最初の突き上げ以外はある特定の方向だけに揺れ、それに逆らわないようにあったものはそのようになったようである。
会社に行こうかどうか迷うが、どうも電車は動いていないらしい。会社に電話しようにも全くつながらない。会社どころかどこにも。電話が通じたのは一体いつだったろうか、とにかく当日は休み。
マンションは、エレベーターが止まっていた。この状況がこのあと1週間以上続いたと思う。
で、外に出るとなんか足元がおかしいと思ったら、マンションの片側の地面がせり上がり、段差ができていた。5センチほどか。、マンション自身も傾いていたかもしれない。
大阪は神戸に比べれば比較的被害は少なかったが、庄内から千里〜高槻に至る地層のライン上ではそこそこ被害が出たようだ。千里には実家もあるが、隣の家の石灯籠の上の部分が飛んできて小屋の屋根が抜けたと言ってた。
友人は会社も含め皆無事だった。会社の人はその友人も含め、神戸に近い人もみな無事だったのは幸いだった。
宝塚に住んでいた友人は、家の前後の筋の家は倒壊したが、住んでいる筋だけはなんともなかったそうだ。これもおそらく地層の加減なのだろう。それでも電気・ガス・水道がダメみたいで、特にお風呂が入れないと嘆いていた。当時は大阪駅前ビルの地下に銭湯があったので、会社帰りに入って帰ると言ってた。
会社で、その後全員に避難袋が配布された。懐中電灯、ラジオ、笛などが入っていた。ヘルメットもあった。それは未だに家にある。ずっと中に入れる食料や水を交換していたが、最近ご無沙汰している。
当時も、関東圏は大地震がいつ起こっても不思議はないと言われていたが、大阪、関西ではそんなことはないだろうと思い込んでた。(スキーにも一緒に行ってた)土木関係の友人曰く、「そんな保証はどこにもない」といっていたが、まさしくそれが的中してしまったわけである。
この後、間接的にではあるが新潟の2地震に被災した。新潟中越地震では田舎の家の壁にヒビが入ったり、中越沖地震では集落内で何件かの家が倒壊、隣の家を始め、倒壊せずとも住めなくなって取り壊された家が多数、ガスが1ヶ月以上も通じなくて困ったとか、道路の通行止めが1年以上続いたとか、支援物資の菓子パン食べてて親戚が体調壊したとかあった。
そうそう、うちは東電柏崎原発に歩いていけるほどの近距離である。何かあったら即アウトである。中越地震では火災も発生した。「原発が安全」等と言っていたのは原子力の何たるかを知らない無知な連中であるが、田舎の経済的切迫はそれを度外視してでも原発を受け入れなければならない状況であった。そもそも、ほんとうに安全なら、過疎のど田舎に作るよりも効率のよい都会に作るはずである。「何かあったら危ない」は最初から、関った人間がわかっていたはずの事実である。原発は停止していてもお金がかかるし完全に安全ではない。しかも廃炉には長い時間がかかる。更に、廃棄物には処理方法がないので地下深くに埋めるしかない。そう、原発はそもそも出来損ない(見切り発車)の技術なのである。なので、止めておくより、動かしてお金を稼ぎながら、「これ以上新設はしない」「だいたい発電技術を日本の総力を上げて開発し、それと置き換える=地元に還元する」したほうが良い。
防災意識を持ちと準備をしていたとしても、地震の被害は突然来て長く影響しつづけるので負担が大きい。どうすればそれを少しでも軽減できるか。それは地震列島日本に住む人間が考え続けなければならないことなのであろう。
なんか取り留めもなく書いたが、人間、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ことがあるので、こんなことでも記憶を掘り起こしてとどめておこうと思った次第である。
合掌。
まだ当分更新できません ― 2015年01月20日 22時18分06秒
Windows機の復旧ですが、1週間以上かけて何十度やりなおしてもどうにも正常動作させられません。
起動しない直接の原因はWindows\Syswow64内にあるどれかファイルの破壊と分かりましたが、何故か設定を戻すとおかしくなるので、設定周り(Users以下)も無茶苦茶になっているのかもしれません。
なので、完全に新規につくり上げることにしました。なので再構築には更に時間がかかると思われます。
メイルも一切送受信できないのであしからずご了承ください。
ブログだけはMacからでも書き込めるので何とかできますが。
(写真管理はWindowsでやっているので、ブログに写真が載せられない。)
起動しない直接の原因はWindows\Syswow64内にあるどれかファイルの破壊と分かりましたが、何故か設定を戻すとおかしくなるので、設定周り(Users以下)も無茶苦茶になっているのかもしれません。
なので、完全に新規につくり上げることにしました。なので再構築には更に時間がかかると思われます。
メイルも一切送受信できないのであしからずご了承ください。
ブログだけはMacからでも書き込めるので何とかできますが。
(写真管理はWindowsでやっているので、ブログに写真が載せられない。)
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