大阪古絵葉書(7)2020年08月26日 06時51分42秒

誰もが知っている大阪城。
天守閣が写っていないのは、ここが「四師団の兵隊さんが居やはる」とあるように、軍用地で中には入れなかったからと思われる。いや、この当時はまだ天守閣は再建されてなかったのか。

「ここは馬場」とあるが、現在の地図には該当する場所名がないため、これがどこから写したものかはわからない。
大阪城の歴史を見るに、鳥羽・伏見の戦いの前後で二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋門を除く城内の殆どの建物が消失したとあり、明治に入ってからは陸軍が敷地を使った。和歌山城から御殿の一部が移築されたり軍によって門が復元されたりしたような。でも軍施設だったため戦争末期の空襲で甚大な被害を受けたみたい。
写真には3つ建屋が見えるが、江戸の火災から残った「二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓」のいずれかだろうか。

更に文面には「昔太閤さんが天下を取りやはった時に築いた」とあるが、実際には江戸期の大阪城は徳川が豊臣大阪城を徹底的に潰した上に建てたものなので間違っている。当時はそのような事実はまだ一般人は知られていなかったことかもしれないけど。


これは造幣局。桜の通り抜けで有名。
過分にして行ったことがない。もちろん今年は中止だった。来年も怪しいかな。
写っている建屋はおそらく今と違うと思う。

またも大阪今昔から。
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「造幣局の桜」
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「さあ。いよいよ明日[アシタ]から、造幣局の通りぬけが出来[デケ]まっせ・・・」

 私たちは、長年[ナガネン]、巷をつたわるその声々をきくことによって

(あぁ、今年の春も、もうまん中やなあ)

 と、身にも心にもしみじみと、闌春を感じるのであった。だから私たち、いわゆる北大阪に住んだものにとって、造幣局・・・といえば、春のシノニムほどに、駘蕩たるものをうけとるのである。造幣局と聞いただけで、僕が陶然とするからといって

(さては彼奴は、子供のことから金勘定がうまかったんだな)

 などと早合点してはならない。造幣局には、大阪名物の一つに数えられる桜があるからである。僕はいま、この稿を書きながら、その桜並木を想いみることによって、そこはかとなき故郷の春を、身ちかく感じてさえいる。

 造幣局の桜は、たしかに大阪名物の一つであった。だからといって、その桜並木が、雲かとまがうばかりでもなければ、京の祇園の桜のような名木があるわけでもない。
それはただ、粲然たる春の陽の光をかぎる、雑踏の塵埃をあびながら、たよりない花を梢につけて、とびとびにならんでいるだけである。僕は、まえに書いた桜並木という字が、甚だふさわしくないことを感じるので、取り消してもよいくらいだ。満身の花影どころか、満身の砂ぼこりである。そんな桜をさえ、もとめて群集せねばならぬほど、大阪は、花に乏しい町なのである。

 桜に乏しいばかりではない。吉助の牡丹、梅屋敷の梅、桃山の桃、野田の藤。もっとも、まだ若い僕は、子供の時分にすでにそれらを見る事は出来なかった。が、ことごとに大阪自慢の祖母の話によってすら、大したことはないのである。まったく、大阪は花に乏しい町である。

 その代り、女のためには、道頓堀に五座の櫓が立ちならび、人々は花見弁当のかわりに芝居弁当を桝[マス]の中でひらく。男のためには、二月の堀江の木の花踊り、四月の新町の浪花踊り、南地の芦邊踊り、五月の北陽の浪花踊り、春はまず踊りからひらく。あくまで、大阪と大阪人は

 ”花より団子”

 であるらしい。祖母もまた、

「いやいや、造幣局はやっぱり花の名所や。桜の花やなしに、黄金色の花の名所やがな。人はおおかた、その匂いをかざがきに,ぐんしゅうするのやろ」

 と、いった。そういう洒落をいう祖母は、やっぱり生粋の大阪人であったのだ。

 造幣局のほかに、大阪で桜の名所を求めるならば、新町の九軒の桜、土佐の稲荷--もう、捜[サガ]さねばならない。順慶町の憲兵屯所の桜はなくなったし、天王寺公園の夜桜は、およそ低俗で数えられない。では、煤煙以前は何うかとしらべて見る。

 天保板の「懐中重宝花電車」に

「さくらは、どうがん寺、どうせん寺、天王寺、安井、南たなべ、尼寺、りゅうせん寺、ながら、さくらのみや、しん町」

 とあり、文久板の「大阪繁昌詩」には

「安井天神、新清水、天王寺、隆専寺、生玉神社、鶴満寺、長柄、九軒」

 があげられている。これとて大したことはない。

  清水へ祇園へよぎる桜月夜
   こよひあふ人みな美しき

 の晶子女史の感懐もわかなければ

  花の雲かねは上野かあさくさか

 の雄大に比すべくもない。

 右の天保板のうち、さくらのみやとあるのは、淀川の水が、蕪村の「春風馬堤曲」で名高い毛馬の閘門をすぎ、大阪の西北端へかかろうとするところにある。桜の数はすくないが、長堤にならぶ花は、水にさかしまの影をうつして倍加する。規模は小さいが、花の中に宮居もあり、なるほど昔はここだけは花見の趣きをつたえたであろう。屋形船などうかべた古い版画を見たこともある。

 造幣局は、その桜の宮の対岸に、明治三年に構築された。明治三年四月、新政府は画一純正の貨幣を新鋳することに議が定まり、その鋳造所を、淀川沿岸川崎の、旧幕府の米蔵跡と決定した。

 現在の行政機構から考えると、だいたい、造幣局が東京になく、大阪にあるのは何う考えてもおかしいのである。が、これは当時、帝都を大阪にさだめようという議が、相当有力にあったことを物語るものとして面白い。その頃は、造幣局と呼ばず、川崎造幣寮といった。造幣局と改称されたのは明治十一年一月十一日である。

 起工は明治二年、英国からウォートレス技師を聘して、ことをあたらしめた。材料は、香港の旧英国造幣局の鉄材を輸入し、煉瓦は広島と堺に新しく窯を築いてつくらせ、幾多の困難と、当時における百万両の巨費をもって明治三年十一月に竣工を見た。その最初のころは、貨幣の鋳造ばかりでなしに、硫酸、曹達なども製造した。

 しかし、この日本最古の石造建築や、煉瓦づくりの屯営所は、今はない。僕は小学校の頃、校外教授でその鋳造所と屯営所を参観した。又ある春の日、祖母につれられて見た宏壮な煉瓦塀と、その塀の外の一本の桜の老樹を忘れない。桜は折柄の川風に、パッと淀の水のおもてをすれすれに舞った。又の日、僕は、長柄の墓地へまいる途中、堀川の監獄の前を通った。あの見上げるような煉瓦塀の前にも、一本の桜の木が花をつけて、わびしく風に散っていた。煉瓦塀に散る桜--僕は今、いずれとも、わかなくそれを思い出しているのである。

 造幣寮の竣工と共に、対岸が桜の名所であるところから、東岸西岸の桜、遅速同じからずと洒落たわけでもあるまいが、その寮内に桜を植えた。そのころは染井吉野の全盛であったから、それを植えた。はじめは、市民鑑賞のためではなく、寮員の眼をたのしませるためであったのだろう。それが、市民のために「造幣局通りぬけ」ということになったのは、何時からのことか。とにかく、この通りぬけは、最初、造幣局が切符を発行して、桜花縦覧を許可したのだから、いかにも官僚式である。その頃の、ザラ紙の社会面からひろって見ると

○造幣局の桜花は昨今が満開につき、明十九日より三日間局内桜花観覧のため、天満橋の表門より源八渡しの裏門へ、諸人の通行を許さるる由(明治十七・四・十八)

○一昨日の紙上に、造幣局桜花縦覧を諸人に許さるる由掲げしが、右は全く切符を所持する者に限る故、同局にては一昨日数多の切符をそれぞれ配付せられたりと(明治十七・四・二十)

 ここらあたりが、通りぬけのはじめではあるまいか。それから二年たつと

○桜の花に名だたる川崎樋の口の堤は、一昨日よりチラホラ掛茶屋も出来たるが、盛りの桜花を見るはまだ数日を経る事ならん。しかし、鶴満寺の糸桜はボツボツと咲き初めたるをもって、瓢をたずさえ行厨を手にし、同所へ杖をひくもの絶えずありとなん(明治十九・四・三)

 は、その付近の桜の様子をうかがえるし

○川崎造幣局構内の桜花も、已に満開に近きをもって、今十五日より十七日まで三日間、毎日午前十時より午後四時まで、人民に縦覧せしめらるるという。但し道筋は、天満橋北詰川崎の通常門より河岸に沿い、源八渡し場の柵門に通り抜けを許さるるよし(明治十九・四・十五)

 さすがに官僚で、夜桜は終始許さなかったらしい。しかし、もうその頃は入場切符の事については記載はなくなっている。

 造幣局は、当初においては旧幕時代のお米蔵跡を敷地として建築されたが、のちに官舎などもふえ、次第に敷地や建築物の増加と拡張を見た。東は淀川なので、西へひろがったのはいうまでもない。拡張した地域は、川崎町の天満与力屋敷あとと、川崎東照宮あとである。

 現在、造幣局消防器具置き場になっているあたりが、大阪武鑑にもある東天満邸図の明地で、その西隣りの造幣局南官舎七十二号舎が、中斎大塩平八郎の、いわゆる洗心洞の址である。平八郎が事を挙げる日、すなわち天保八年二月十九日の朝、大阪城代土井大炊頭が巡見の途中、大塩邸の斜め向い東町与力朝岡助之丞の邸に入って小憩する予定であった。その時を砲撃して首途の血祭にする手筈であったのが、城代は予定の時間に到着しなかった。事をあせった連中は待ちきれずに、時前に大砲を打ちこんだ。砲弾は朝岡邸の庭の槐[エンジュ]の木の幹を裂いただけで、何の効もなかった。しかし、この槐の木を裂いたことは、後年一つの役には立った。木は、今でも市電空心町より桜の宮橋に至る舗道にあって、その裂け目の洞[ホラアナ]は、道路を洗ういろいろの器具の納屋[ナヤ]代りに役立っているなどは、洗心洞の遺跡にふさわしい。

 造幣局員の社交機関、泉友倶楽部の玄関わきに、織田有楽斎茶席の沓脱石がある。
家康も親しく足跡を印したものとして、川崎東照宮をここ建てる因をつくった由緒のある石である。

 造幣局を書くなら、桜と共に泉布観[センプカン]を逸することは出来ない。

 泉布観は、造幣寮の応接所として起工されて、明治四年九月に出来上がった。煉瓦づくり二階建で、五十六本の丸柱は、ことごとく花崗石の一本もの、階上のシャンデリアも、英国製のカットグラスを使用し、当時としては最上級の豪華建築であった。

「それ、ここが、天皇陛下のお泊りになった泉布観だっせ。よう覚えておきなはれ」
「センプカンて、何んのことやのん?」
「さあ、おおかた宿屋の水明館、大正館ちゅうのと同じやろ」

 祖母も、泉布観の名のよって来るところについては、孫に適当な説明は、なし得なかった。

 明治天皇が、みたび大阪に行幸あらせられたのは、明治五年六月四日で、伏見より御乗船になり、川崎造幣寮前桟橋より御上陸、行在所たる造幣寮応接所へ入御あそばされたのである。そのときはまだ、ただ応接所とばかりで、館号がなかったのを、特に、陛下より御下賜のおもむきを仰せ出された。陛下は側近に向って館号について御下問があったので、随行者の一人であった日下部小内史は、その夜、はげしい風雨をついて心斎橋三木書店へおもむき、いろいろの参考書を買い求めて考えた上

「宝貨行如泉布」

 の句にもとづいて「泉布観」をこそ、と奉答したのによるという。泉布とは貨幣のことである。そして、三條右大臣染筆の扁額「泉布観」を御下賜あらせられた。

 泉布観は、その後明治十年、三十一年、再度の御駐輦に、光栄いよいよかがやくものがある。明治二十二年、造幣局より泉布観を宮内省に献納したが、大正五年、改めて大阪市に御下賜あり、現在では御臨幸記念館として、保存しているものである。

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建物というか、制度自体が現存しない。一応現在で言うところの大阪高等裁判所だけど、建屋は全く異なる。大阪地方検察庁のHPによると、この建屋は大正5年に建築された3代目庁舎のようだ。これでこの写真群の時代がほぼ確定できた。

「何百年も経ったら大阪中が西洋建ばっかりになるやろと思いまっさ」とあるが、何百年どころかこの後50~100年でおおかたそうなった。

大阪古絵葉書シリーズも、今回で一旦終わり。でも、大阪の絵葉書は1種類じゃないので他の風景が出てきたらまた書くかも。

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