電信連隊演習絵葉書2020年08月11日 06時20分00秒

こんなのも出てきた。

電信隊とは、今でいうところの通信部隊だろうか。富士の裾野での作業の様子を絵葉書にしている。
演習じゃなくて測定や設置作業みたい。本当は5枚あるのだけど3枚だけ紹介。

裏面を見る。
UNION POSTALE UNIVERSELLEというのは万国郵便連合のこと。国際郵便として使えるという意味だろう。CARTE POSTALEとは「葉書」という意味。この時代の絵葉書はこの表記が入った物がほとんどのような気がする。日本が海外に領地を持っていた関係だろうか。

大東亜戦争時代に入ると英語は敵国語として使われなくなるが、この時代はまだそうではなかったという証拠である。年号はないが、昭和初期か。そもそもこのような軍に関係する物を絵葉書に出来たのだから、まだ統制も厳しくなかったのだろう。古き良き時代?

郵便貯金100億円記念2020年08月12日 06時08分47秒

前に郵便貯金70億円記念絵葉書を出したけど、今度は100億円。

前回が昭和15年9月だったから、1年9ヶ月で30億円積み上げたことになる。
「聖戦すでに五年を経過して事変は大東亜戦へと進展し戦争の一段と長期化に伴い戦費の増大は必然に進展し・・・」とあるので、戦時色がどんどん濃くなっている時代である。

絵柄にもそれは現れていて、前回のは芸術的作品だったのが、
この竜はともかくとして(これも100億と書いてあるのがあれだが)、

こちらなんてまさしく戦時絵。
先の日本徴兵よりマシだけど、この程度。こんなんもらってもうれしくないけどなぁ。戦争反対。

柏崎県・椎谷県22020年08月14日 06時57分06秒

書面をさらに眺めていると、柏崎県・椎谷県について分かる書面がまた見つかった。

これは柏崎県。
前回見せた家督相続の前に出されたと思われる、親の隠居願い。前と言うか日付からすると同じ日に出されたものかもしれない。親が隠居するので子が家督を相続する、ということ。今は生前に家督相続という制度はないはずなので当時ならではといえる。

こちらはご先祖に当分の間司令官付きとする、と指示した書面だと思う。
椎谷藩庁と書いてあるが、これが椎谷県庁のことではないかとにらんでいる。

昔の書面は年号が入ってないのが多いんよね。ご先祖の名前から年代が分かれば良いんだけど、残念ながらそれを知る資料はない。過去帳からなくなった日付は分かっても年齢までは分からないので。うちの親が生きている内に書かせとくんだったなぁ。

曾祖父母2020年08月15日 05時57分08秒

今回の蔵発掘では本当に色々なものが大量に出てきた。それを数で大別すると、「書状」「書籍」「手紙」「写真」「絵葉書」「レコード」「着物」が中心であった。すでにいくつか紹介している。

写真は明治から昭和年間までに渡ってのものが出てきたのだけど、明治の写真は人物が大半。当時のカメラの性能(大きさ、露光速度)では屋外での撮影は大変だったからかもしれない。

そんな中で見つけたこの写真。
写真館で撮影されたここに写るのは、私の父方の曾祖父母だと分かった。明治41年8月撮影で曾祖父22歳、曾祖母23歳、祖父3歳と裏面に書かれていた。

私は当然曾祖父とは面識がない。祖父も昭和50年に亡くなっているのでそれほど覚えているわけではない。しかし、こうして写真が残っていたおかげで、実に100年以上の時を超えて会うことが出来た。

親戚から家系図を作ってほしいと言われている。いやそれ、私に言うより父親に言っててほしかったと思った。私はご先祖に関してはほとんど何も聞かされていないので分からないから。しかし、こうして写真(と名前)とか書面上に名前が出てくると作りたくなった。3代くらい前(写真の人の父親くらいまで)しか遡れないけど。過去帳やお墓に掘られた名前も合わせて調査中。

この写真を撮影したのは、裏面の記述に依れば長野市にあった写真館のようだ。検索で調べてみても引っかからないので現在は存在しないと思われる。わざわざ新潟から長野まで行って撮影したのか。当時のうちは裕福だったらしいので金銭的には可能だったろうが、そもそもそこまでするのがすごい。他の写真の殆どは柏崎の写真館で撮影されていたので、何かの理由があってわざわざ行ったということになる。なんだろう?その写真館が全国的に有名だった?

「種板は永久保存するのでいつでも焼き増しできる」とも書いてある。当時は当然フイルムではなく乾板撮影で、乾板は持ち帰りではなく写真館で保存するのが一般的だったのだろう。今も写真館が残っていれば「今でも出来ます?」って聞いてみたかったんだけどね。

ということで、他の写真も徐々にスキャンして保存中。まあ、うちに関係するところだけだけど。あまりにも数が多いので全ては多分無理だから。他の人のは今でも子孫が住んでいれば渡してあげたいけど、分らないからなぁ(分った人のは次回持って行ってあげる予定)。椎谷に明治から住んでいた家系の人は一度ご連絡を。

明治時代の上野の西郷隆盛像2020年08月16日 05時54分23秒

古い写真を整理していたら、こんなものが見つかった。
上野の西郷隆盛像だ。
画像補正をかけてできるだけ見やすくはしたが、元の状態が非常に悪いため私にはこれが限界だった。

一緒にあった写真から、時代は明治38年から40年代だと思われる。作られたのが明治31年らしいので、ほぼ直後に近い状態だと言えるだろう。

時代決定のもう1つの決め手は周りにある柵。現在は柵はなく、絵葉書などで残る明治の像にはあるところからも明治だとほぼ断定できる。

絵葉書で残っているものは多かろうが、このように写真で残っているものは少ないのではなかろうか。これで保存状態が良ければなぁ。

写真乾板を調べれば種板があるかもしれない。見つけたら再現してみよう。

東京都電案内図2020年08月17日 06時52分11秒

今度見つけたのは東京都電案内図。
都電全盛期の地図だと思われるが、残念ながら年が書いてない。
ヒントとなるのは以下の点。
(1)都電と呼ばれている
(2)40系統ある
(3)戦時中に不要不急路線として廃止された線路がまだある
(4)新宿~荻窪間がある
これらから、昭和18年ではないかと思われる。詳しくはここも参照のこと。
今回見つけた資料の中では、これでも比較的新しいものだ。相模大野に印がついているということは、祖父が長女の通う学校の下調べをした時に行ったときのものかもしれない。

当時これだけあった都電も今は荒川線しかないのね。私はそれすら乗ったことがないので一度は乗りに行きたい。とはいえ東京に行く機会はしばらく、当面、いや今後永久にないかもしれないけど。誰か東京に招待してくれる?(現在無職T_T;)

こちらはその裏面、東京郊外電車前線案内図。
私は東京には土地勘がないのでよくわからないけど、とにかく線が多い。JR近郊区間の一筆書きは鉄道趣味の間では有名だけど、私鉄も含めてひと筆書きしたらどれくらいで走りきれるんだろう。

等と思うだけ。

東京全図2020年08月18日 06時25分08秒

こんな物も出てきた。
先の東京都電図よりもさらに古く、明治32年のものである。

明治32年というのはまだ都電というかその全身の市電も走ってない。日本初の鉄道の起点である新橋駅(地図上では新橋ステイション)は描かれている。
東海道本線の神戸まで開通が明治22年なので、それよりは後の地図となる。新橋駅から馬車鉄道が結構長く走っているのもわかる。これが市電になるのだろう。

ものすごく細かく書き込まれているのだけど、印刷が薄いので主な所に文字を入れてみた。
区は15しかない。
麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区
今の23区には1つも残ってないのかな?

有名所では宮城(「みやぎ」じゃないよ)は皇居、鹿鳴館も見える。上野の西郷隆盛像は明治31年に出来ているからこの地図上では書いてあってもおかしくないんだけど、私には上野すら見つけられなかった。東京人じゃないからね。

実はこの地図、裏面は白紙なんだけど、そこには毛筆で文字がびっしり書き込まれている。住所と名前が書いてあるようなので、多人数に貸して回し見していたのかもしれない。当時はこのような地図はまだ一般には手に入らなかっただろう。

東京はこの後大正の12年の関東大震災、大東亜戦争での大空襲を経て大きく様変わりをしただろうから、この地図は過去を知る資料になろう。
京都・大阪の地図もあればよかったんだけど、観光では訪れたことはあるようでも地図の購入までには至ってないようで。残念。

熱海温泉案内図2020年08月19日 06時27分31秒

熱海温泉の案内図。

玉ノ井旅館というところが作ったものみたい。

これも年が書いてないが、別館が「丹那トンネル開通とともに開業」と書いてあるので、昭和9年以降だとわかる。

今もあるのだろうかと思って調べたら、残念ながら2008年1月で営業を終了されたみたいだ。高級旅館だったようだが露天風呂がないと今は流行らない、ということみたい。

栄枯盛衰。

大阪古絵葉書(1)2020年08月20日 06時11分52秒

古絵葉書の中に大阪のものがあった。
年号が書いてないので、写真から推測することにしよう。
後で書くけど、およそ100年前のものなので全部出してもいいよね?

まずは分かりやすいところから大阪駅舎。当時は梅田停車場といった。この写真にある駅舎は2代目で明治34年から昭和9年まで使われていたようなので、この絵葉書もその間のものとわかる。
さらに市電が既に走っているところから明治41年以降である。

赤字で書かれているのが大阪言葉。関西人なら今でも読めるんじゃないかな。まあ今時ここまでベタベタの大阪弁使う人は少ないと思うけど。

昔の大阪の情景を記述した、長谷川幸延著「大阪今昔」から「梅田」の章を紹介しておこう。
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「梅田」
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(前略)

 汽車で、東海道線を東から入って来て、新淀川の鉄橋を渡ると、いよいよ大阪の瓦の波であって、渡ったところが北野、そして梅田である。

 梅田は埋田[ウメタ]であるという説が、古くから行われている。田圃を埋めて土地としたからだとも、ここが墓地として発達した基因をつくったから、埋葬すなわち埋田だともいうのである。北野につづいて梅田とは、やはり菅公に因んだものであろうと雅びかにいう説もあるが、本当はそれが曽根崎村の地内で、曽根崎の墓ともいったが、もと梅田宗庵という人の土地であったところから、つい梅田の墓といい、やがては梅田村の地名となったものであろうと思う。

 ここが墓地として指定せられたのは元和の初年、大阪落城の直後で、松平忠明が城代であったころの改革であろう。その時寺院や墓地の移転廃合があって、天満の町家にあった墓を葭原(現新京阪前)、浜村(南浜)と共に梅田に移された、いわゆる大阪七墓の一つである。大阪の七墓まいりは、昔は盛んに行われ、近松の作品にも「あだし煙の梅田の火屋・・・」にはじまって、葭原、蒲生、小橋[オバセ]、高津[コウヅ]千日、飛田と数えられている。後年には長柄[ナガラ]が入って、高津がなくなっている。もっとも、この時の墓地は、梅田橋の北、かささぎの森、上福島田地をすぎたあたり、現在[イマ]の北梅田町へんで、大阪停車場、梅田町、東梅田町、西梅田町は、いづれも田圃の、いわゆる梅田堤であり、のちに新建家[シンタチケ]とよばれて野中の村落であった。

 ここが神戸・京都間鉄道開通と共に、大阪の表玄関となり(それまでの表玄関は諸国里程中心の高麗橋と、三十石船の起点である八軒屋であった)事情も環境も一変した。
何しろ、この時鉄道敷地として買上げられた価格が反当り四十五円というのだから驚く。それでも当時の人々は民有地としてこの高値に驚いたというのだから隔世の感である。もっともこれは明治二年のお話。三十一年には坪百円をとなえるに至り大阪でも鰻上りの地価であった。何しろ鉄道の中心地だけに足が早いというわけであろう。

 鉄道は明治七年五月に、大阪・神戸間が完成した。途中西宮、三宮の二駅があっただけで、運賃は上等一円、中等七十銭、下等四十銭というわけ。そこで大阪停車場を梅田、くわしくは大阪府下西成郡第三区七番組曽根崎村に設けて、一日八回の往復運転を行った。大阪・京都間は、線路決定に異論を生じてややおくれ、九年七月に至って向日町[ムコウマチ]・大阪間が、九月に至って七条大宮までが開通した。途中駅は向日町のほかに山崎、高槻、茨木、吹田の四つであった。

 明治十年二月五日、大阪停車場を中心に京都・神戸間鉄通開通式が挙行され、折柄薩南の風雲急をつげていたが、明治天皇には特に思召をもって御臨幸仰せ出だされた。当時の大阪知事は、かの撃剣知事とよばれた東民、やりての渡辺昇であった。

 その日は、午前九時三十分京都七条停車場発、十時四十分大阪梅田停車場着、さらに式後十一時十分発、正午神戸停車場着の御召列車のほか、一切の列車を休み、大阪鎭台からは歩兵第十聯隊第三大隊を儀仗兵として、祝砲施行のために砲兵第四大隊の中野砲一小隊を、それぞれ出張せしめ、各戸国旗をかかげて行幸を奉迎した。翌日の浪花新聞にも

「この日はいとのどかに晴れ渡り、さし昇る旭の光は昨日より降りつもりたる屋上の雪に映りて射眼までに照りかがやき、軒端々々に競い揚げられたる国旗の、春風にうちなびきたる景色、さながら一月一日をふたたび迎うるに似たり・・・」

 と、迷文で報じている。

 午前十時四十分、梅田停車場着御になると鉄道線の東手においた六門の四斤砲から祝砲百一発、雅楽合奏の間に玉座におすすみあそばされ、渡辺知事が庶民を代表して祝詞を奏上すると、畏くも勅答をたまわって、式後、神戸へ向けて御発車になった。式はそれをもって終了したが、式後そこで生一左兵衛らの演能があった。

 この大阪停車場は、現在のそれより遥かに西、梅田郵便局の西一丁、古来の住の江とよんだあたりにあって、広漠とした中にポツンと一つだけ煉瓦建ての建築場だった。したがって、現在の停車場の西口に当たる渡辺橋筋が東口、西口は出入橋筋にあたっていた。東梅田町、西梅田町の称呼は、これによって付けられたので現在の停車場を中心としてのことではない。駅前には数十株の樹木を植え、庭園のようにして、趣きをそえた。

 この第一次大阪梅田停車場は、明治三十五年七月に竣工した第二梅田停車場(すなわち現在の場所における前進)に移転するまで、二十五年間そこにあった。

 さて、筆者などの、上り列車の煙を見て、遥かな東京をあこがれた梅田停車場は、この第二次のそれである。現在の東海道線豊橋停車場、あれをやや規模を大きくしたものにすれば、いかにもよく似ていると思う。豊川稲荷行きの電車のところなど、往年の城東線乗場を髣髴させるものがある。構内の様子もやや似ていると思う。我家から遠くないので、幼いころ、親戚のお客を送って行って、五十銭銀貨をもらって大喜びして走って帰る道でおとしたのも、この停車場であった。

 現在の拡張された新装の豪華な建築物は、第三次梅田停車場で、昭和十五年七月、戦時下工芸の粋をほこって出現した。もっともこれはまだその全部ではない。やがて全貌をあらわし、停車場前の予定地にビルディングが立並んだならば、丸之内の、さらに近代化した風景が展開されるであろう。

 が、それはいかにも我々のもつ梅田という観念から、はなはだ遠いものになってしまうであろう。ありし日の梅田は、すでにあとかたもなく、停車場前のアスファルトの下へ、ぬりこめられてしまったのである。

 あの駅前に立ち並んだ運送店と、御中食お支度処、旅人宿、うどんや、七軒もあった岩こし(粟おこし)屋、そして安カフェー、男女口入所・・・駅前にもう口入屋のある風景などはものの哀れを思わせるし、旅人宿の看板に「宿料いかようとも御相談いたしますと大書きしてあったのも、大阪らしい味であった。ここの、この風景だけは、豊橋駅江前には求められない。明治、大正期の大阪の、寝起きの顔である。行く行く船場、島の内とお化粧して、心斎橋筋、道頓堀と満艦飾になるが、大阪に下り立ったばかりの梅田の駅前は、まさに朝寝髪の素顔であった。

(後略)

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次は新世界(ルナパーク)。
これは通天閣なのだが、現在の新世界にあるものとは違う。

ルナパークというのは明治45年7月3日に開業した遊園地だ。大正12年には閉園しているので、この絵葉書が明治45年から大正12年までの間のものであることが確定できる。下の文面にある飛行船がまだあるところから、この期間の中でも比較的初期だと思われる。仮に大正5年位だとすると105年前ということになる。

この初代通天閣はルナパーク閉園後も残っていたらしいが、大東亜戦争での金属供出によって解体されてしまった。

また「大阪今昔」から「新世界通天閣」の章を紹介しておこう。ここに書かれていることの多くが絵葉書写真でも確認できる。
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「新世界通天閣」
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 四天王寺の付近を天王寺とよび、天満宮の鎮座ましますところから天満の地名があるのは、まだ不思議ではない。しかし、恵比須町界隈を、遂に「新世界」と総称するに至ったのは、その名がいかにもお酒の銘みたいで妙ちきりんなのに、今では誰も怪しまない。

「新世界へ行[イ]こか」

 で、充分通じる。

 大阪人は、道頓堀、千日前一帯を「南」と愛称する。昔の大阪市の、南部に位していたからである。が、今では、市の中央部といって差支えない。だから

 「南へ行こか」

 とは、決して方角を意味しない。玉造からも、南へ行こかであり、松島からも、南へ行こかである。恵比須町から道頓堀は北にあたる。それでも、南へ行こか、である。
それから見れば、新世界はまだましであるが、正しくは、嘗て新世界という娯楽場のあった付近、というべきである。何しろ、澤田正二郎は澤正、山崎長之輔は山長で通じる省略好きの大阪人である、麻布一の橋を、麻一では通じないが、天神橋筋六丁目が天六で、上本町[ウエホンマチ]六丁目が上六[ウエロク]、車掌までが

「次は上六だっせ」
「上六、降りまっせ」

 の大阪では、昔新世界のあったところ、が、「新世界」で通じるのは当然かもしれない。

 いま其処に、天を摩す残骸となって、空しく空に屹立している通天閣。これだけが、現在[イマ]もなおのこる

 新世界通天閣

 である。

 明治三十六年四月、大阪市に開催された第五回内国勧業博覧会は、大阪の社会百般の文化に、極めて大きい影響と示唆とを与えた。市中の諸河川に巡航船の通じるようになったのも、市電がはじめて開通したのも、同博覧会の参考館へ出品され景物的に運転された蒸気自動車によって、実に大阪における自動車普及の嚆矢になったのも、皆これ
である。その他、大阪の工業技術、商業活動の上に寄与したことは数えきれない。旧大阪公会堂も、大阪ホテルも、博覧会にそなえて三十六年一月に新築落成している。

 のみならず、その博覧会敷地跡は三十七八年の戦争に、或いは病院となり、俘虜収容所となり、四十二年には天王寺公園として面目一新した。同公園は、大阪市民に与えられた唯一の公園である。そして、美術館、参考館、温室などを旧博覧会から受け継ぎ、美術館は大正八年、市民博物館として開館された。

 さらに、同敷地跡であって天王寺公園に編入されなかった西の部分、柵外地四万余坪が遊んでいた。市当局は、これを一般に解放して娯楽場とし、大阪市の南方発展に資せんとする意向があった。この意を体して、大阪土地建物会社が賃借して経営したのが、新世界ルナパークで、四十五年七月三日から開業した。

 ルナパークは、Lunar(形容詞)、Luna(月)(a)r(の)--月の、公園である。はじめは、その名のごとくアメリカの遊園地式に企画され、敷地の中央に庭園をつくり、築山あり、泉水あり、瀑布あり、動物檻もあれば、メリーゴーラウンドあり、回転木馬ありという構成。この庭園の東西に二つの劇場があり、清涼殿の方ではユニバーサルの活動写真、月華殿の方では田宮貞楽の喜劇を開演して、各各千五百人の収容力があった。ひろい瀟洒な花園を自由に散歩出来る劇場というのだから、今から三十年前としては、すばらしいものであった。いわば、このルナパークを模倣、改良して、のちに千日前に楽天地、市岡にパラダイスなどが、出現したが、これはその以前における、大衆慰楽のオアシスであった。

 通天閣は、この新世界ルナパークの中心として、象徴としてそそり立つ二百五十尺、全部鉄骨材料をもって組立てられたエッフェル式高塔である。そのころ、大阪の子供たちのうたった尻取唄に

「何とかは光る、光はダイヤモンド、ダイヤモンドは高価[タカ]い、高いは通天閣、通天閣は揺れる、揺れるは何とか・・・」

 というのがある。しかく、大阪で高いことの比喩には必ず引合に出された通天閣ではあった。全部鉄骨材料を使用してあっても、暴風の日には、頂上にいると、ゆらゆらと塔の揺れるのが分ったという。夜は、塔いっぱいにライオン歯磨の電飾広告が燦として、南大阪の空に照り映えて壮観であった。古い、大阪特有のおんごくのうたに

 ^^玉江橋から天王寺が見える・・・

 という。昔は、中之島玉江橋から天王寺の塔が見えたらしい。が、近代の煤煙都市ではそれは望めない。しかし、夜空にきらめく通天閣の電飾は、玉江橋阪大病院の窓から、それとはっきり眺められて、夜の大阪の偉観たるを失わなかった。

 又、通天閣自身からの眺望も、遠くは摂・河・泉の山川が模糊としてひろがり、近くは大大阪の瓦の波が、ひたひたと脚下にだだよう。大阪城の天守閣が再建せられない以前であったから、何んといってもこの頂上がいちばん高かった。ここへはエレヴェーターで昇るのだが、エレヴェーターとしても、われわれ子供が乗った最初のもので、下駄をぬいで入った人のあったのを覚えている。

 この通天閣から、池をへだてた白塔、ビリケン塔へはケーブルがあって、六人乗りのケーブル・カーが往復した。これを、索道飛行船と称したが、人工ながら豪壮な瀑布や、欧風の花壇の上を悠々と通るのであるから、全く羽化登仙の趣きであった。が、久米仙人ではないが、ある時ケーブルが切断して、ケーブルカーが件の池へ墜落し、死傷者を出した椿事があり、それから間もなく索道飛行船は就航を中止した。

 そのケーブルの一点であった白塔には、その頃流行の舶来の福の神、ビリケンさんの像を安置してあり、ビリケン塔と呼んだ。当時新輸入のこの福の神は、殊に花柳界での人気すばらしく、縁日の艶歌師も、ビリケンの読売りを

 ^^嬪頭廬[ビンヅル]さんは、痛いところを撫でれば癒る、ちょいとネ、ビリケンさんは足の裏を掻いてもらえば、福の神・・・

 云々とやった。ケーブル・カーが中止となり、したがってビリケン塔も取壊しにあったあと、この福の神はお額[デコ]が欠けたり、足の指が四本半になったりして、その残骸を通天閣の下、エレヴェーターの昇降口に曝し、哀れな辻占売りに零落していたが、いつの間にやら全くその姿を消してしまった。

 天王寺公園には、第五回内国勧業博覧会ののち、拓殖博だとか、記念博だとか、いろいろな博覧会が催された。会期はたいてい春三四月を中心に始終されたようである。

 博覧会といえば、陽春の光ただよう日曜日、柔らかな草の絨緞をふんで、祖母に手をひかれながら訳分からず観て廻った、いろんな博覧会を思い出す。そしてその帰りには必ずルナパークへ廻った。たいていの人が、そのコースをとるので、ルナパークもあふれるような群集であった。

 人波にたつ砂埃が、濛々として陽射の中に乱舞すれば、遠く会場からきこえるジンタの音は、美しき天然となり、湖上舟遊となり、君が代マーチとなって夕暮れの哀愁をそそる時、まだ残照の空に通天閣の電飾が仄かにまたたき、片輪になったエトランゼーの福の神の眸[メ]が、子供心を物悲しくさせた。それらの日、夕飯をたべた広田屋の庭
や、雲水の給仕の半衣といっしょに、いつまでも忘れられない幼い日の映像である。

 このルナパークの組織は大正十五年かぎりに改められ、園内への入場料をとらず、自由に出入りさせ、興行館がそれぞれ入場料を徴収する制度になった。この制度によって、新世界は面目を一新し、花園も、池も、痕跡をとどめず、そのあとへ諸種の興行物や、飲食店が立並び、いわゆる新興の歓楽街と化してしまった。千日前よりさらに低
く、メタンガスのような体臭を芬々させ、一種の新世界色をぬりたくった。

 その一つの特徴が、軍艦横丁である。

 軍艦横丁とは、新世界の東南の一角にある噴泉浴場の西側にそった小路である。ここは法善寺横丁のさらに低俗なる、嘗ての千束町に似て非なる銘酒屋小路である。

 ここでは祝儀の五十銭で、安値に酌婦の絃歌さんざめき、酔客はかんたんに南陽の名妓を侍らしたと同じような愉悦をほしいままにして、一日の労苦を忘れるところである。軍艦横丁という名の由来する所以は、筆者は知らない。

 ただその中にあって通天閣だけは節電になる最近まで、依然としてその電飾を南大阪の夜空に高く聳えさせ、東洋一の自称を誇っていた。

 が、その通天閣も、遂に永久にその姿を消す時が来たのである。

 去年の暮の東京朝日に、今度東京と大阪の名物が一つづつ、それぞれ政府の金属回収運動に応じて、永遠にその姿を消すという記事が掲載された。まだ耳新しいことだから、御記憶の人もあろう。東京の一つは谷中の墓地にある新派演劇の鼻祖川上音二郎の銅像で、大阪の一つは、この通天閣である。通天閣の鉄材は、時価百万円、取除け費用
に一万円かかるそうである。

 長年見なれて来た通天閣がなくなるのはいささか淋しい。が、通天閣自身も、これ以上風雨にさらされながら天に向かって背伸びしたところで、何の役にも立たない。

 この稿を急いでいる時、新聞紙はふたたび通天閣のことを報じた。その脚下の大橋座から出火した炎は、ずっと東に伸びて五つ六つの映画館を総舐めにしたという。さらば古き新世界は、真に大衆慰楽の新世界として、やがて更正の姿を見せるであろう。通天閣にも、もう解体の足場が出来たであろうか。それともすでに半ば姿を消したであろうか。
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やばければ削除するので、読みたい人はお早めに。「大阪今昔」も随分と前に新潟で発見したのだけど、内容が面白くて全文現代語で打ち込んだ。大阪の歴史に興味がある人には読んでほしいけど今どこで読めるのかなぁ。

大阪古絵葉書(2)2020年08月21日 06時46分59秒

「楽天地」。レジャー施設である。劇場などがあったようで、それは写真の看板でもわかる。
大正3年から昭和5年まであったらしいが、現在は存在しない。こちらに客が取られてルナパークが潰れたという話がある。

千日前というのは大阪市内の難波より北、道頓堀より南、御堂筋より東、堺筋より西のこのあたりにある。市電が見えるが、おそらく南北線と思われる。1908年=明治41年には開通しているので写真に写っていても不思議ではない。

こちらは心斎橋。
現在のように筋の名前ではなく、この橋こそがその由来になった「心斎橋」。長堀川にかかる橋で、この石造りの橋は明治42年に作られたそうである。現在は長堀川自体が埋め立てられて存在しない。そういやWikipediaにある写真もこの絵葉書だ。当時相当数売れたのだろう。現存するのはどれだけあるかわからないけど。

「大阪今昔」から心斎橋の章の一部を紹介しよう。楽天地という名前も出てくる。
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「心斎橋」
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(前略)

 とまれ、心斎橋といえば、何より先に思い出すの十月二十日の誓文払の、織るような人のゆきかいである。そして、その次に泛び上がって来るのは、霜凍るような寒い夜、心斎橋鰻谷の東角に、鰻の寝床のような細長い軒下にしゃがんだり、言訳のような床机に腰かけたりしてすする、味噌汁の味である。この味噌汁は、大阪独特の甘い白味噌立てで、

「おっさん、たこやで」
「わいは、くじらにどじょうや」

 注文によっておっさんは、それぞれ中身をたしかめるように

「へえ、どじょうでっせ」
「よっしゃ」
「へえ、ばかはあんさんでっか」
「うん、わしや」

 白く立つ湯気の中に、はしをかけるように二本わたして、さし出すのである。

 このわびしいまでになつかしい「心斎橋のしる」も、最近では立派な店をひろげ、八間[ハッポウ]を透ける電燈に、おっさんの頭と味噌の薄いのまでがハッキリして、すっかり興ざめしたことであった。この心斎橋のしるにしろ、演舞場の裏にあった栄太楼にしろ、楽天地裏にあった喜久の家にしろ、成功して店をひろげたが、特色はまるで失わ
れて、味もあいそも水っぽくなった。

 心斎橋の南詰一帯は、昔は長堀心斎町といった。心斎町にかかった橋ゆえ、心斎橋である。そして、安錦橋が錦屋安兵衛の寄付によって成り、藤中橋が藤中何庵という医師の架設、佐野屋橋が佐野屋某の肝いりでかけられたように、ここで問題になるのは、心斎という篤志家の正体であるが、これは未だに不明であるらしい。

 長堀川の開鑿が寛文二年であるから、心斎橋はその川に長堀橋につづいて架橋せられたというから、その年代も想像がつく。そして明治五年三月、工費一万九千五十三円を費して鉄橋に架けかえられ、さらに明治四十二年十一月、工費七万二千三百十四円によって現在の石造にあらためられたのである。

 心斎橋筋の鈴蘭燈は、すでに撤回した由を大阪の新聞で見た。ははん、さては火の消えたような寂しさか、などということ勿れ。いつか燈火管制中の心斎橋筋を通ったが、なお筆者の幼い日の追憶にある町並より、明るく、生々とあった。あの心ブラの、いやな通語で呼ばれたころの、不必要以上の明るさは、まことにつまらなかったわけであ
る。

 大阪を、もし美しい女人にたとえたなら、顔は何処にあたるであろうか。それは措いて、心斎橋筋こそ、その領脚にあたると思う。だから、大阪を見せるには、何処よりも心斎橋筋を見せることが、領脚だけを垣間見た女の美しさのように効果的である。思えばバッチリの白粉で厚化粧した、かがやくような領脚であったのだ。が、生地を殺した不自然な、不健康な美しさでもあったのだ。今それが湯上りの、匂うような素肌の美を、ゆくりなくもとりもどした。すくなくとも、これが規準になれかしと思う。
午前八時開店、午後六時閉店・・・心斎橋筋の商店の、大半がそれを尊奉している。これまでだって、百貨店式経営をならっていた店はそうであった。その他の店は、半ば心ブラ客に迎合してのおつき合いであった。そして、心斎橋の夜の景観に協力することを、そこに住み、そこに店舗を持つ者の当然のつとめのように思っていたのである。

「休んだら叱られる」
「世間体が悪い」

 のであった。

 心斎橋筋三津寺町の角に、豆屋があった。筆者の家の台輪の火鉢の、三つ抽斗のまん中には、いつもここで買うそら豆が、いっぱい入っていた。豆×といったか、屋号は忘れてしまったが、祖母は

「同じそら豆でも、三津寺町の豆×の豆は、豆がちがう」

 いささか、目黒のさんま式に、そうひとりぎめにし、他所の豆を買わなかった。芝居ばの混雑をいとい、切[キリ]の所作事を

「右団治の、花火せんこみたいな踊りでは、しょむない」

 と割愛してのかえり道、豆×の豆を買っては、背中の幼い筆者に

「あつあつだっせ」

 と渡すのであった。焼きたてのそら豆は、小さなふところに、いつまでもポカポカと温かった。--というのが、豆屋ですら、雑穀[ザコク]屋ですら、心斎橋に店があるということのために、芝居ばれ近いその時間まで、煌々と電燭をかがやかせて、豆を焙[イ]っていたのであった。心斎橋筋は、かつてそんな町であったのである。

 心斎橋筋という呼び方にも変遷があり、明治中期以後、電燭の発達によって南詰以南の商舗街が急速に発展し出してからは、そこから戎橋の北詰までの間を、そう呼ぶようになったけれど、それ以前は、心斎橋筋といえば北詰から以北のことで、南詰以南は、錺屋[カザリヤ]町とか、木挽町とか、その旧名を呼んだものであるという。

 その頃のいわゆる心斎橋筋は、松屋町[マツヤマチ]や菓子屋[カシンヤ]、寺町や坊主・・・とならび称せられるほどの本屋街で、五十何軒もの書肆が、軒をならべた盛観は、もちろん若い筆者などは見て居ない。が、安土町の加賀屋吉田(謡曲本では大阪屈指である)が、遠縁であたるところから、これで本屋のことは―寸ぐらい識っているのである。

 当時は、河内屋系統の全盛で、伊丹屋、敦賀屋、近江屋の諸流がこれにつづいた。
河内屋の本家は北久太郎町の河喜こと柳原喜兵衛。例の三木佐助も河佐、即ち河内屋佐助で、この分家である。

 敦賀屋の本家は心斎橋筋一丁目松村九兵衛、この系統に金尾文淵堂の敦為があり、近江屋の流れには、東京・大阪の宝文館、それから大阪盛文館がある。

 家柄はもっとも古く、曲亭馬琴の日記にも「心斎橋の書林に宿した」とあり、維新当時、のちに児島高徳を抹殺して抹殺博士の尊称を得た大修史家、当時薩英戦争の周旋外交で名をあげたばかりの重野安繹の隠れた秋田屋太右衛門(田中宋栄堂)は、別格の存在であった。

(後略)

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