大阪古絵葉書カラー編(3)2020年09月12日 05時59分00秒

住吉神社。
今は住吉大社というのか。住吉神社と言えば海の神様で、全国の海の近くに存在するが、この大阪の住吉神社が総本社であるそうな。

明治の初めまではこの反橋は人間は渡れなかった。全国の神社に反橋はあるが、多くは神様が渡る橋と言うことで、人の通行は出来ないようになっているはず。京都なら上賀茂神社にもある。
住吉神社ほど反り返ってはいないが。新潟は弥彦神社にもあったなぁ。

住吉神社の橋は明治の末には渡って良いことになったようで、ということは、この写真もそれ以降の物と言うことになる。

大阪今昔にも記述がある。
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「住吉神社」
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 住吉名所や名物をよみこんだ歌謡は、古来たくさんにある。中でいちばん有名なのは、^^高砂やこの浦舟に帆を上げて・・・の謡曲「高砂」であり、つづいて伊予節のそれであるが、面白いのは地唄の「住吉詣」であろう。

 伊予節については、ここにあらためて掲げるまでもないが

^^堺住吉 反り橋わたる 奥の天神五大力 おもとやしろや 神明穴から大神宮さんをふしおがみ 誕生石[セキ]は石をつむ 赤前だれが出てまねく ごろごろせんべ竹馬に麦藁細工につなぎ貝 買わしゃんせ

 素描の素描なら、このうた一つでこと足りるかもしれない。それに堺住吉といいきっているのは面白い。

「住吉詣」の方は、地唄の中でも新味に富んだもので、歌詞を見てもわかるように、明治時代の作である。貫之の歌を枕にして、

^^道しらば摘みにもゆかん住の江の 岸におうちょう恋わすれぐさ ここは難波[ナンバ]の車どめうさ忘れ草つまましと ただ一こえの笛の音に のりて出でたつ思うどち 語らうことも名に高き 阿倍野のやしろ天下茶屋 はしりすぎつつ巻たばこ すいきらぬ間にいさぎよく 着くや心も住の江の 四つのみ社ふしおがみ はまに出づればあまの子が 拾うはまぐりあさり貝 したたみがいのしたしくも やよまてしばし言問わん ものいう貝のさくら貝 いざやひろわん家づとに 妹に見せまし子安貝 世のうきこともわすれ貝 かいある御代のすみよしの 岸のひめ松ひめ松きしの 岸の姫松めでたさ

 後半は貝づくしになって陳腐だが、巻たばこすいきらぬまにいさぎよく、着くや・・・というあたり、いかにもその作詞の時代をものがたって、ほほえませる。

 長唄の雛鶴三番叟に採り入れられた住吉も、うつくしい。その他、清元や常盤津にも散見する住吉は、ことごとくきれいだ。

 古は、住吉の海はちかく、現在の高燈籠の下まで汐がよせたらしい。高燈籠もそのための燈台である。朱の社殿、翠の木立、白砂青松の住吉は、いまなお昔をおもわせるが、海は次第に埋立てられて、三韓渡航の砌り、社頭の浜からお舟出になった御模様などしのぶべくもない。

 住吉公園の池はコンクリートになり、五色の睡蓮がうかび、花壇のつつじはチューリップに席をゆずり、すっかり近代色をみなぎらせている。美しく整理はされたが、もはや雅びかな、住の江の岸の姫松いく代へぬらん、という趣きはなくなった。

 しかし、四社のやしろは、今もなお国宝として、健在である。

 住吉神社へ詣って、誰でも異様に感じることが二つある。一つは、四つの社のならび方、一つは、石舞台と楽舎の位置である。

 普通、四社ある場合、たいていは横列にならび、したがって四社合拝の礼をとり、神饌を相嘗にしている神社もある。が、この住吉神社では、第一本殿から、第二、第三と縦列に配置され、第四本殿だけが、第三本殿とならんで、横にはなれている。

^^四社のお前で扇を拾うた ぬしにあうぎの辻占や・・・

 と、雛鶴三番叟にあるが、この歌詞は調子だけのもので、四社のお前とはいいにくい。住吉の四社がなぜ、一社だけべつにあるかということは、古来いろいろにつたえられている。少ししらべて見たが、適確な記述が見当らなかった。

 思うに、神功皇后御出征の砌、住吉の社(その頃は住吉とはいわず、海宮[ワダツミノミヤ]と称した)に、海上の安穏を祈られたが、途中、舟、風波に遭って海にめぐり、すすむこと能わず、その時海宮の祭神、表筒男[ウワヅツオ]、中筒男[ナカヅツオ]、底筒男[ソコヅツオ]の三神の教えにしたがい平かに海をわたりたもう、と日本書記にあり、御凱旋の
上、海宮の社域をひろめ、御造殿のこともあったのではあるまいか。一の神殿の祭神は底筒男命、二の神殿は中筒男命、三の神殿は表筒男命と三社を縦におき、第四の社はのちに造営になり、祭神は神功皇后であるところを拝察しても、三社とはべつに祠られたのではあるまいか。古事記にも、墨江之三前[スミノエミサキノ]神也とあり、もとは三社であったように考えられる。

 次に、石舞台の位置である。石舞台は、いうまでもなく祭神にささぐる舞楽を奏する舞台で、どの神社でも、本殿の前方にあるのが例であるが、ここのは、一の神殿の右側、廻廊の外にあって、北向きに舞い奏することになっている。以上の二つは、だれの目にも一寸奇異の感をいだかしめるので、書きそえておく。石舞台の位置の何故なりや、御教示を得たいと思う。

 住吉に詣でて、もっとも印象的なのは、反り橋と、高燈籠である。境内無数の大小の石燈籠も目をそばだたしめるが、これは、石清水八幡や、春日神社の古き、夥しきには一籌を輸す。ただここは、海[ワダツミ]の神なので、そのほとんど全部が、各地廻船問屋や船主からの寄進である点、異色がある。異色といえば昔から、

「書は貫名、詩は山陽」

 という、その二人の揮毫なる石燈籠が、仲よく、参道をさしはさんで向い合って立っている。山陽の方は署名はなく、阿州藍玉大阪積の字だけであるが、貫名の方は、永壽講の字のほかに、八十五、貫名海屋と署名されている。
どちらも見上げるばかり立派なものが二基づつならんでいるからすぐ分る。反り橋を、北へよったところである。

 そういう例外はあるが、石造美術としての価値からいえば、前述の石舞台の方が、はるかに高い。創立は不詳であるが、一説には、楽舎と共に豊臣秀頼の寄進であるという。鑑識家が、慶長ころのものであろうと、もらしたのを聞いたことがあるし、信仰家の秀頼なら寄進しそうである。殊に当社には、有名な秀吉の願文が保存されている。父子二代の信仰を、この摂津一の宮にもっていたのも面白い。秀吉の願文とは、大政所の病気平癒を祈願したものである。

 猶以命儀三ヶ年、不然者二年、実々不成者三十日にても憑被思召候
 今度大政所殿煩於本腹者、為奉賀壱萬石可申付之条、弥可被抽懇祈事専一候也
六月廿日 秀吉花押
住吉

 これが全文である。猶以て命の儀、三年、それも出来ない相談なら二年、実々ならぬものならば三十日でもよい・・・というあたり、太閤の真情が吐露されている。

 高燈籠については、摂津名所図会に

 出見の浜にあり。夜ばしりの船の極[メアテ]とす。闇夜に方角を失うとき、住吉大神をいのればこの燈籠の灯ことに煌々と、光あざやかなりとぞ

 と記述があるほどで、筆者は、この燈籠の下、花月亭に一年がほど棲んでいたので、つれづれに、よく登って見たが、此方からの眺望は大してきかない。埋立と煤煙で、海も見えなかった。

^^住吉さまの高燈籠 のぼって沖をながむれば・・・

 という俗謡があるが、卑猥でここには載せられぬ。

 反り橋は、亀戸の天神の三倍くらいある。
 太宰府のよりも大きい。

 この反り橋は、子供の時によく渡った。のぼる時より、下りる時が怖かった。しかし、どの神社にかぎらず、反り橋は神橋で、俗人のわたるべきものではない。反り橋があれば必ず反り橋のかたわらに、平橋がある。平橋は、反り橋の渡り得ぬ人のためにあるのではなくて、反り橋は渡ってはならぬのである。反り橋には、のぼり易いように、
足がかりの穴がつけてあるが、あれは俗人のためではなく、渡御の時、御輿に供奉する人のためであり、あがけ(足掛)、くびすえ(踵据)と称する穴である。穴かしこかしこ。

 住吉の川柳には、とるべきものが見当らぬが俳句ともなれば、何しろ貞享年間、社前において西鶴が、一昼夜に二万三千五百句の大矢数をこころみたというところだけに、今もなお句碑にのこる

 升買ふて分別かわる月見かな 芭蕉

をはじめ

 たがうゑし松にや千代の後の月 大江丸
 松苗やゆくゆく月のかかるまで 几菫
 松風の声も添へけり夏神楽         翠鴬
 この上は車一輛ほととぎす         淡々
 若みどり神の浜松ひねたれど 来山
 反り橋に胸のつかえる蛙かな 貞佐

 などのよい句がある。

 住吉の名物は、麦藁細工の住吉踊りをはじめ、いろいろある。中に、茗荷[ミョウガ]が数えられていないが、忘れ草、忘れ貝、忘れ水・・・もの忘れの神様かと思うほど、忘れ物が多い。

 道しらばつみにも行かむ住の江の
  岸に生ふてふこひわすれ草 貫之

 いとまあらば拾ひに行かむ住吉の
  岸によるてふ恋わすれ貝 不知

  住よしの浅澤小町のわすれ水
   たえだえならで逢ふよしもがな 範綱

という有様である。

 埋立地には二業指定地もあり、ものいう花もあり、我を忘れ、家を忘れる人もある。

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