「写真で見る椎谷の100年 人物・生活編」正誤表・追記12022年11月06日 13時47分01秒

「写真で見る椎谷の100年 人物・生活編」の正誤表・追記その1です。

・背表紙
「人物・風景編」になってる(誤植)。「人物・生活編」です。ただし、すべてシールで訂正してから発送しています。

・p88
「借金の方」→「借金の形」(誤植)
 この場合の「かた」を漢字で書くと「形」なのだそうです。

・p99
椎谷にあった写真館はうちの副業ではありませんでした。住所が判明してわかりました。その家に古い写真が残ってないのかなぁ。

・p281
使用ソフト「Mcrosoft Word」→「Microsoft Word」(脱字)

・p20
堀家の大名行列が1日平均32キロ歩いたと書きましたが、明治天皇が東京行幸したときは京都~江戸間約500キロを24日で移動したと記録にあります。と言うことは1日平均1日20キロ強ですので、堀家の移動がかなり早いとわかります。

・p47
名前の上の●がずれてしまっています。一番右の●が一番右の人;長谷川氏の上に移動したら左の人が合うようになります。

・p266
「奠都」に「せんと」とふりがなを付けていますが、正しくは「てんと」です。遷都(せんと)は古い都を廃し新しい都を作るという意味ですが、奠都(てんと)は新しく都を定めるという意味、前の都を廃する意味はありません。東京へは奠都したのですから、京都も都のまま、と言う理屈も成り立つわけです。日本の法律上、東京は首都とは明示されていません。しかし事実上そう見なされている、と言うのが国の見解です。

・全体
明治までの人名・地名は当て字の事も多く、例えば私の高祖父は「榮三」が正しいですが、「栄三」「榮蔵」もありました。字が抜けているということもあります(「藤吉郎」→「藤吉」など)。漢字名をひらがな・カタカナで書くこともあります(女性に多い)。椎谷藩の「中条村」も「中條村」との記載もありました。
ゆえに、その辺りは「誤字」ではなく「いろいろな当て字をされていた」と考えてください(決して誤字の言い訳ではありません)。

p7 堀家家系図
第5代は「直央」(なおなか)とする文献がほとんどですが、三雲家に伝わる江戸時代の文献「雑記」には「直時」とあります。どちらが正しいかは私には判断しかねます。
また、第7代を「直旧」(なおひさ)と書いていますが、これは人名なので旧字のまま「直舊」で書くのが良いかもしれません。読みも「なおひさ」の他、「雑記」では「なおふる」とふりがなが打たれていました。

p267
(北)大糸線と書いていますが、北(南小谷より北の意味)どころか
南も含め大糸線は未開通なので、ここは「大糸線」と書くべきでした。
昭和32年開通なので今年65周年です。記念切符でも発行すればいいのにと思いますが、なされていないようです(一応乗りには行きました)。

p279
十干十二支の表の文字が欠けています。こちらが補正版です。

p42
「「雑記」に名がないことからから」・・・「から」が2つ続いています(誤植?)。

p95
屋号を「かくじゅう」と書いていますが、正しくは「かねじゅういち」でした。あと先祖の名前から「まつべえ」とも呼ばれてたようです(「まつべえ」さんちの誰それと呼ばれてたと)。

今わかっているのは以上です。間違いは第2刷で修正します。

「写真で見る椎谷の100年 人物・生活編」追記22022年11月15日 07時23分12秒

p92
旧日本石油工場跡。工事中の写真が見つかりました。
2015年より前ですが、一体いつの物なのかはわかりませんでした(自分で撮影した物ですが、原本が見当たらない)。

写真で見る椎谷の100年人物・生活編サンプル2022年11月22日 20時10分58秒

写真で見る椎谷の100年人物・生活編のサンプルページです。
風景編には「馬市」という大きなお題目があって紹介しやすかったのですが、人物・生活編はちょっとわかりにくいので数ページあげてみました。

六川陣屋図と椎谷位置

堀家文書

大東亜戦争中資料

柏崎水族館や北冥館

大正時代の長岡市内写真

昭和28年新潟博覧会

大正時代高田飛行場

ご興味を持たれた方はこちら販売ページからどうぞ。

なお、増刷の予定はありません。あしからずご了承ください。
(C)おたくら編集局