大阪古絵葉書カラー編(4)2020年09月13日 06時11分28秒

大阪天保山。
天保山と言えば今は海遊館で有名な場所だ。かつては日本一低い山(ただし人工)だったが、最近2番目になったらしい。

文言には四国瀬戸内海や別府へ行く船が出ているように書いてあるが、現在も一応客船桟橋はあるもはあるが、それらへ行く物はないんじゃなかろうか。私も大阪から船でそれらに行くときにここから乗ったことはない。


大阪市庁舎。
これは3代目の庁舎。現在は御堂筋は淀屋橋の近くに4代目の庁舎が出来ており、これは解体され残っていない。

大阪市庁舎を大阪の観光場所とするなら、ここより今も残る中之島公会堂(正式名称は大阪市中央公会堂で大正7年竣工)の方を出した方が良いんじゃね?と思うのだけど、この絵葉書が発行されたときはこちらの方が出来たてほやほやだったのかもしれない。3代目市庁舎竣工は大正10年なので、この絵葉書の発行はそれ以降と言うことが分る。白黒版より5年ほど後だ。

大阪今昔では「中之島」の章にわずかに記述がある。白黒編で出てきた大正橋、難波橋の名前もある。
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「中之島」
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 大淀の流れが、悠々と大阪の市中に注ぎこみ、毛馬をすぎ、川崎をすぎ、錦城の天守をうつして大きく屈折するとき、忽突として中之島剣先は、この大川を二つに引裂く。
北なるは川幅ひろく流れゆるやかな堂島川、南なるは両岸やや迫って水勢つよい土佐堀川となる。この二つの川は、はるか十五六丁も川下の、端建蔵橋[ハタテクラバシ]の下でふたたび落合う。すなわち、中之島の尽きるところである。

 その中之島を胸骨と見て、あたかも肋骨のごとく左右の川へのびている橋は、川上から天満橋[テンマバシ]、天神橋、難波橋[ナニワバシ]はべつとして、北(堂島川)に鉾流橋[ホコナガシバシ]、可動堰[ダム]、大江橋、渡辺橋、田蓑橋、玉江橋、堂島大橋、上船津橋、船津橋、南(土佐堀川)に栴檀木橋[センダンノキバシ]、淀屋橋、肥後橋、筑前橋、常安橋[ジョウアンバシ]、越中橋、土佐堀橋、湊橋があり、そして尾骨のごとく端建蔵橋があって川口につらなっている。今、その橋々の解説だけしても、茲にたいてい詳しくはつくせない。

 かりに淀屋橋の上に立って、土佐堀川の上流をながめたとして、天満橋は見えないが、一番上に見えるのが「天神橋は長いなあ、落ちたら怖いなあ」と、いとも合理的なうたいかたで当時の童謡にもある天神橋。まん中のが難波橋。一番手前が栴檀木橋[センダンノキバシ]である。この橋は、筆者にとって忘れられないものがある。まず我流にこの橋からはじめる。

 古い地図を見ると、大正以降に架かった可動堰[ダム]や土佐堀橋、上船津橋、鉾流橋はべつとして、この栴檀木橋は、書いてあったりなかったりする。元禄元年以前に架橋せられたものであるが、たびたび火災や洪水に遭って流れ、この橋だけはいつも等閑に附せられているかたむきがある。現に明治十八年の大洪水に流失して以来、大正二年まで架設されなかったくらいである。

 ずっと昔には、この橋はただ、中之島の突端にある備中成羽五万石、同檜原二万石、美作津山十万石の蔵屋敷への通路であった。そのころの中之島の尖端を山崎の鼻といった。すなわち備中成羽は山崎主税助義厚で、山崎殿の鼻というほどの意味で、蔵屋敷が廃止になり、このあたり一帯が遊覧の地になってからも、久しくそう呼びならされていた。この山崎の鼻に埋立地が出来て種々の興行物や山雀の芸当、犬芝居、軽業などがかかり、料亭もあり、篠崎小竹の友人の持家がそこにあり、田能村竹田が泊まって、水明楼と名づけたという伝説もあった。山崎の鼻にさらに鼻が出来た、鼻から鼻が出たというので、ここを風ひき新地と呼んだ。

 明治の末、そこには橋がなかった。そこには、裁判所や憲兵屯所の建物を取はらってひろびろとしたあとへ、現在の市庁舎のところに中之島公園が入口をひらき、正面にローマ寺院を思わすようなマリシャンオーダーの大円柱がそそり立ち、青さびたドームの三層楼の巍然とした大阪府立図書館を中心に、夜はアーク燈がかがやき、夏はビヤホールもある大阪唯一の市中公園であった。筆者は曽根崎に住んだので、夏の夜などよく祖母の背に負われて、この公園に涼を求めた。祖母は公園をぬけて、土佐堀川のほとりに川風をしたって逍遥しながら、いつも

「昔はここに、せんだのき橋という橋があってなあ」

 祖母は子守唄の合の手に、いうのであった。

「橋の下に、ぎょうさんのたのきがいたんや。そして通る人をだましたもんや。百匹も、千匹ものたのきがなあ。それで、橋の名もせんだのき橋というのんや」

 古い大阪人は、狸をたのき、狐をけつねと呼んだ。油揚の入ったうどんはけつねうどんで、粋[イキ]に、信田[シノダ]などともいった。

 千匹の狸の話に怖えながら、背中にちぢこまって寝た孫をゆり上げゆり上げ、祖母は大江橋を北へわたって帰って行った。

 その後、大正二年、岩本栄之助が私財百万円をポンと投出して造った大阪中央公会堂が起工された時、その公会堂の横正面に、新しい橋が架けられたのである。当時は、筆者ももう小学校の四年生で、橋柱の字は読めた。

「お祖母さん。あんた、間違うていまっせ。あの橋は栴檀の木橋で、せんだのき橋やおまへん」
「そうやったかいな」

 祖母は、おだやかに笑っていた。栴檀の木を、せんだのきともじって、即興的に背の子に話してきかせる。祖母は、そんな面を多分にもっている人だった。しかし、そんなことには気もつかず、少年は、たしなめるようにいった。

「第一、あんな川に狸がいるなんて筈はあらへん。訝[オカ]しいと思うていた。狸なんてもんは、山奥にいるもんだっせ。街のまん中に、狸はいまへん」

 祖母の顔から、笑いの翳が消えて

「幸さん」

 じっと、少年をみつめるようにした。

「狸は山奥にいると、かぎりまへん。どこにでもいます。そして、人を誑します。山奥にいる尻尾の生えた狸より、まち中[ナカ]にいる尻尾のない狸の方が、よっぽど怖い。あんたも、気をつけんといかん」

 栴檀木橋を南へ渡ると、南北の筋を栴檀木橋筋とも、略して栴檀筋ともいう。その栴檀筋の高麗橋の角に農工銀行がある。筆者はやや長じてから、親戚の功利家に乗ぜられ、先祖から伝わった家や土地を沈め、農工から金を借りて与えたことことがある。親戚は巧みに肩を抜いてしまったが、筆者はいつまでも農工に苦しめられ、半年賦償還の金を夫婦していうにいわれぬ苦労をし、半年に一度、かならずこの橋を渡って農工へ通った。そんな時、いつもせんだのき橋の話を思い出して、祖父や祖母にも、おろかな自分が恥ずかしくてならなかった。

 栴檀木橋といっても、栴檀の木で造ったのではない。この橋詰に、往古大いなる栴檀の木があって、神功皇后還御の時、艦[フネ]をつなぎたもうたという伝説によるのである。

 中央公会堂の建設費百万円を大阪市に寄付しておいて、ピストル自殺をした岩本栄之助は、当時著名な北浜の株式仲買人であった。彼は公会堂の建築中に、当時の第一次世界対戦を永続しないものという見解の下に、弱気一点張りの売方針に終始し、大正五年十月十七日に至って、再び起つべからざる窮地に陥って死んだ。が、彼が自殺して二月を出でずして、世界の情勢は一転した。もう二ヶ月を売りつづける粘着力があったら、と、惜しまるる人の一人である。

 その一つ上流の難波橋[ナニワバシ]、何がゆえにこの橋頭に巨大なる獅子の像があるのか、筆者は寡聞にして知らぬ。石橋だから獅子がいると、長唄もどきで片づけるわけにも行かない。現在は大阪一の近代調を誇るこの橋が、実は大阪最古の橋であり、行基菩薩の架設したものという。栴檀木橋の一つ下[シモ]の淀屋橋は、寛永年間、淀屋二代个庵が、米相場に群集する人々のために、自費をもって架けたので、そのまま名づけて淀屋橋といった。

 淀屋橋とまっすぐに、堂島川に架けられたのが大江橋である。もっともこれが直線化したのは、北区の大火に焼失後、架替えの時からであった。

 大江橋の一つ下[シモ]の橋は、渡辺橋である。

 俊成卿の夫木集にもある通り、一橋にして三名ありという。現在はその三名を三つに分けて、難波橋、大江橋、渡辺橋とべつべつにしているが、もとはこれ一つであった。場所は太平記にもある通り、現在の天満橋のあたりであろうか。行基のかけた難波橋のあとに、大江の岸の名をとって大江橋が架せられた。そのころはこの川にこの橋一つ、天満郷へ渡るところから、渡辺橋の別名があったのである。

 渡辺橋から一つおいて、玉江橋がある。

^^玉江橋から天王寺が見える さても不思議な玉江橋 ありゃりゃこりゃりゃ さあさよいやさ

 と大阪独特のおんごくの唄にもうたわれる通り、やや反り橋のこの橋の中ほどに立てば、行く手の真南に、天王寺の塔が三重まで見えたという。現今のように高層建築物が無く、さえぎるものが無いのだから、見えるには見えようが、真南に見えるのはいかにも不思議で、天王寺はあきらかに玉江橋から巽のかたに位する。

 一筋におがみたまへや玉江橋
  あらとうとやのとうと念佛

 当時における、不思議の一つであった。

 はしの話しはこれで打ち切り。とうてい、はしばしまでは行届かぬと御容赦を乞う。

(後略)
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ということで、大阪古絵葉書紹介はカラー編もおしまい。次は東京にするか、京都にするか。東京は全然土地勘がないから本当に絵葉書載せるだけになるけどね。

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