写真で見る椎谷の100年風景編の間違いや、寄せられた情報を時々記載します。
・・・正誤・・・
・赤造ですが、本では椎谷から鎌田の方へ向かう道すべてを赤造と書いていますが、正確には今のお墓の一番鎌田寄り;六地蔵さんがあるあたりより先のことを指すそうです。そこに小さな集落と桜並木があったそうです。また昭和20年代頃にもまだ桜並木があったようです。
・p259のスタンプの新旧、本では右が古いと書いていますが、よく見ると文字の書かれ方が左が「左←右」、右が「左→右」となっているので、左が古いとわかりました。こんな大きなヒントがあったのに間違えるなんて。
・・・情報・・・
・戦後、学校の気象台の下あたりに松の植樹をしたがうまく育たなかった
・諏訪山にあった墳墓は、少なくとも昭和20年代頃までは存在した
・六地蔵さんの奥には焼き場があった
・宮川の大火の原因はたき火の不始末で、折からの強風で火の粉が飛んだことによる。
・椎谷からも火の気が見え、こちらまで来ないか心配だった。
・大火で家を失って引っ越ししていった同級生がいた
・椎谷入り口のあたり?で狐に化かされるという噂があった。うちの祖父が化かされて海に転落したと。
・p20の下の写真のブランコの後ろで人が乗っているのが龍登樹の切り株(昭和50年当時)です。切られてから30年近くたってもまだはっきりと残っていたことがわかります。
・・・
本発行後に見つかった重要そうな写真はここで紹介するかもしれません(それか人物編の中に「風景編追記」として入れるかも)。
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