大阪古絵葉書(2)2020年08月21日 06時46分59秒

「楽天地」。レジャー施設である。劇場などがあったようで、それは写真の看板でもわかる。
大正3年から昭和5年まであったらしいが、現在は存在しない。こちらに客が取られてルナパークが潰れたという話がある。

千日前というのは大阪市内の難波より北、道頓堀より南、御堂筋より東、堺筋より西のこのあたりにある。市電が見えるが、おそらく南北線と思われる。1908年=明治41年には開通しているので写真に写っていても不思議ではない。

こちらは心斎橋。
現在のように筋の名前ではなく、この橋こそがその由来になった「心斎橋」。長堀川にかかる橋で、この石造りの橋は明治42年に作られたそうである。現在は長堀川自体が埋め立てられて存在しない。そういやWikipediaにある写真もこの絵葉書だ。当時相当数売れたのだろう。現存するのはどれだけあるかわからないけど。

「大阪今昔」から心斎橋の章の一部を紹介しよう。楽天地という名前も出てくる。
---------------------------------------------------------------------
「心斎橋」
---------------------------------------------------------------------

(前略)

 とまれ、心斎橋といえば、何より先に思い出すの十月二十日の誓文払の、織るような人のゆきかいである。そして、その次に泛び上がって来るのは、霜凍るような寒い夜、心斎橋鰻谷の東角に、鰻の寝床のような細長い軒下にしゃがんだり、言訳のような床机に腰かけたりしてすする、味噌汁の味である。この味噌汁は、大阪独特の甘い白味噌立てで、

「おっさん、たこやで」
「わいは、くじらにどじょうや」

 注文によっておっさんは、それぞれ中身をたしかめるように

「へえ、どじょうでっせ」
「よっしゃ」
「へえ、ばかはあんさんでっか」
「うん、わしや」

 白く立つ湯気の中に、はしをかけるように二本わたして、さし出すのである。

 このわびしいまでになつかしい「心斎橋のしる」も、最近では立派な店をひろげ、八間[ハッポウ]を透ける電燈に、おっさんの頭と味噌の薄いのまでがハッキリして、すっかり興ざめしたことであった。この心斎橋のしるにしろ、演舞場の裏にあった栄太楼にしろ、楽天地裏にあった喜久の家にしろ、成功して店をひろげたが、特色はまるで失わ
れて、味もあいそも水っぽくなった。

 心斎橋の南詰一帯は、昔は長堀心斎町といった。心斎町にかかった橋ゆえ、心斎橋である。そして、安錦橋が錦屋安兵衛の寄付によって成り、藤中橋が藤中何庵という医師の架設、佐野屋橋が佐野屋某の肝いりでかけられたように、ここで問題になるのは、心斎という篤志家の正体であるが、これは未だに不明であるらしい。

 長堀川の開鑿が寛文二年であるから、心斎橋はその川に長堀橋につづいて架橋せられたというから、その年代も想像がつく。そして明治五年三月、工費一万九千五十三円を費して鉄橋に架けかえられ、さらに明治四十二年十一月、工費七万二千三百十四円によって現在の石造にあらためられたのである。

 心斎橋筋の鈴蘭燈は、すでに撤回した由を大阪の新聞で見た。ははん、さては火の消えたような寂しさか、などということ勿れ。いつか燈火管制中の心斎橋筋を通ったが、なお筆者の幼い日の追憶にある町並より、明るく、生々とあった。あの心ブラの、いやな通語で呼ばれたころの、不必要以上の明るさは、まことにつまらなかったわけであ
る。

 大阪を、もし美しい女人にたとえたなら、顔は何処にあたるであろうか。それは措いて、心斎橋筋こそ、その領脚にあたると思う。だから、大阪を見せるには、何処よりも心斎橋筋を見せることが、領脚だけを垣間見た女の美しさのように効果的である。思えばバッチリの白粉で厚化粧した、かがやくような領脚であったのだ。が、生地を殺した不自然な、不健康な美しさでもあったのだ。今それが湯上りの、匂うような素肌の美を、ゆくりなくもとりもどした。すくなくとも、これが規準になれかしと思う。
午前八時開店、午後六時閉店・・・心斎橋筋の商店の、大半がそれを尊奉している。これまでだって、百貨店式経営をならっていた店はそうであった。その他の店は、半ば心ブラ客に迎合してのおつき合いであった。そして、心斎橋の夜の景観に協力することを、そこに住み、そこに店舗を持つ者の当然のつとめのように思っていたのである。

「休んだら叱られる」
「世間体が悪い」

 のであった。

 心斎橋筋三津寺町の角に、豆屋があった。筆者の家の台輪の火鉢の、三つ抽斗のまん中には、いつもここで買うそら豆が、いっぱい入っていた。豆×といったか、屋号は忘れてしまったが、祖母は

「同じそら豆でも、三津寺町の豆×の豆は、豆がちがう」

 いささか、目黒のさんま式に、そうひとりぎめにし、他所の豆を買わなかった。芝居ばの混雑をいとい、切[キリ]の所作事を

「右団治の、花火せんこみたいな踊りでは、しょむない」

 と割愛してのかえり道、豆×の豆を買っては、背中の幼い筆者に

「あつあつだっせ」

 と渡すのであった。焼きたてのそら豆は、小さなふところに、いつまでもポカポカと温かった。--というのが、豆屋ですら、雑穀[ザコク]屋ですら、心斎橋に店があるということのために、芝居ばれ近いその時間まで、煌々と電燭をかがやかせて、豆を焙[イ]っていたのであった。心斎橋筋は、かつてそんな町であったのである。

 心斎橋筋という呼び方にも変遷があり、明治中期以後、電燭の発達によって南詰以南の商舗街が急速に発展し出してからは、そこから戎橋の北詰までの間を、そう呼ぶようになったけれど、それ以前は、心斎橋筋といえば北詰から以北のことで、南詰以南は、錺屋[カザリヤ]町とか、木挽町とか、その旧名を呼んだものであるという。

 その頃のいわゆる心斎橋筋は、松屋町[マツヤマチ]や菓子屋[カシンヤ]、寺町や坊主・・・とならび称せられるほどの本屋街で、五十何軒もの書肆が、軒をならべた盛観は、もちろん若い筆者などは見て居ない。が、安土町の加賀屋吉田(謡曲本では大阪屈指である)が、遠縁であたるところから、これで本屋のことは―寸ぐらい識っているのである。

 当時は、河内屋系統の全盛で、伊丹屋、敦賀屋、近江屋の諸流がこれにつづいた。
河内屋の本家は北久太郎町の河喜こと柳原喜兵衛。例の三木佐助も河佐、即ち河内屋佐助で、この分家である。

 敦賀屋の本家は心斎橋筋一丁目松村九兵衛、この系統に金尾文淵堂の敦為があり、近江屋の流れには、東京・大阪の宝文館、それから大阪盛文館がある。

 家柄はもっとも古く、曲亭馬琴の日記にも「心斎橋の書林に宿した」とあり、維新当時、のちに児島高徳を抹殺して抹殺博士の尊称を得た大修史家、当時薩英戦争の周旋外交で名をあげたばかりの重野安繹の隠れた秋田屋太右衛門(田中宋栄堂)は、別格の存在であった。

(後略)

---------------------------------------------------------------------

(C)おたくら編集局