大阪古絵葉書(5)2020年08月24日 06時35分45秒

天満の天神社。
天神祭の歳神をお祭りする神社である。もちろん現存する。上方落語協会のある天満天神繁昌亭はこのすぐ近くのはず。一度行ったことがあるようなないような。

また大阪今昔から紹介。
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「天満[テンマ]の天神」
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 毎月二十一日のお大師巡り、二十五日の天神詣りは、大阪の老幼(幼はつれられて詣るのだが)男女にとって、現在[イマ]もなお相当の賑いを見せている行事であろう。

 天神社はいうまでもなく菅公を祀る社で、大阪には二十五の天神の社がある。天神の御縁日が二十五日であるところから、二十五社を定め(或は選び)、かの三十三所の札所めぐり、八十八ヶ所の大師巡りになぞらえてはじめられたもので、二十五社詣りの巡路は古く「難波丸網目」に見えている。

 その二十五社の中でも、何といっても第一に指を折られるのは、もちろん「天満の天神さん」で通っている府社天満宮である。

 そもそも「天満の天神」というのは、訝しいのであって、天満も天神も、菅公を神格化しての称呼である。天神とは、菅公の霊、雷となる、すなわち天神なりというのと、観世音三十三身の中大自在天神とあがめたりというのとあり、天満というのも天神記の「その瞋恚の炎天に満ちたり」からとも、虚空見[ソラミツ]大和の虚空見[ソラミツ]、すなわち天満であるともいう。が、何にしても、「天満の天神」はおかしいのである。

 筆者も子供の時、天満にある天神社だから「天満の天神」やな、と思っていた。だから「天満宮」やなと思っていた。祖母が話してくれたところによると、菅公西遷の砌、この地に輿を停められ、いよいよ発輿の時、あふれるような星空が、遠流の道をてらすかに見えたので、「星光、天に満つ」ともらされたのによるので、この近くに北野、梅田などいう地名のあるのも、すべて菅公に因んだのだというのであった。「星光、天に満つ」は美しいと思った。それをそのまま小説の中へ書いたことがあるが、今でも後悔していない。「瞋恚、天に満つ」よりも、「星光、天に満つ」の方が美しいにちがいないのだから。

 村上天皇の勅願によって、この地に天満宮が創祀されたのは、天暦年間の古いことで、のちに天満宮の近辺を天満とよぶようになったのである。

 が、それにしても天満と呼ばれる地域があまりに広すぎる。明治四十二年の天満焼けは、堀川の付近から出火し、曽根崎、堂島、北野、梅田、福島を焼き、肝腎の(はおかしいが)天満宮の周囲は罹災をまぬがれている。それでいて「天満焼け」である。
事実、その類焼地域三十六万九千四百三十八坪の大半が、天満の地名で呼ばれていたのである。筆者は、曽根崎に生れたが、なお江戸堀や島の内の親戚からは「天満の子」とよばれ、祖母は「天満のおばん」であった。

 由来、大阪の地は三郷に分けられた。いわゆる大阪三郷で、三郷とは南組、北組、天満組の三つである。そして天満組とは大川以北全部、大川以南が、南北両組である。
(南北両組は本町筋が境界である。長堀川を境に、船場と島の内であろうと説する人があるが、島の内の発達はずっと遅い。幸田成友氏もそう書かれている)大川以北は、天満組であって、天満があるから天満の天神やろ、と思うのも決して無理ではないのである。なお、天満宮は、「てんまんぐう」である。「てんまん」が「てんま」とつまっ
たのは、よくある例で、詰るべきを延ばし、延ばすべきを詰めて呼ぶのは、珍しくない。地名のみかは、露地は「ろうぢ」であり、行燈は「あんど」である。

 府社天満宮の行事は、毎月二十五日の月例祭のうち、一月の梅花祭、七月の船渡御祭、九月の秋祭は、この社の三大祭とされている。俗に梅花祭を初天神、船渡御を天神祭、秋祭を流鏑馬祭というが、その方が分りやすい。ほかに八月一日の歌替の神事、九月十三日の秋思祭が有名である。

 中でも初天神と、夏祭はことのほかの賑いである。

 大阪落語の「初天神」は、その賑いを巧みにつたえる。従五位並河寒泉の詩に

  馬郷祠外淑光新 賽客繽紛拂紫塵
  聞説芳梅神所愛 風流尤協浪華春

 というのがある。梅花祭、初天神をうたったものである。

 この日、身動きならぬまでの群集の中へ、真向微塵にねり込んで来る宝惠駕の追憶。宝惠駕は、一月十日の十日戎にも出る。これは南地五花街の紅裙が、研をきそって今宮戎へ繰込むが、初天神には地元の曽根崎新地から紅白の手綱も華美に乗りつける。ここでは、宝惠駕を宝永駕の字で書く。宝永年間、この社へ色駕で詣でたのが起源であるという説によったものである。紅白の縮緬でかざり立てた駕に、定紋うった色とりどりの座布団をしき、名入りの提燈かけ、紅白だんだらの曳綱を曳かせ、駕夫の姿も伊達に、駕側には幇間、末社が肌ぬぎの長襦袢といういでたち。もっともこれは南の宝惠駕と異るところはないが、最初の駕(一番駕といって、南地では一流中の、しかも若い美しい妓が乗るので、富田屋、伊丹幸、大和屋など各席この金的を射ようと競い合う)には献米をつみ、どの駕も梅花祭に因んで屋根に梅の一枝をさしている点、初天神の方が雅びかであった。南地が若い、美しい妓を主にし、曽根崎が優雅な人柄に重きをおいたのは、土地の色が出ていて面白かった。初天神の宝惠駕、天神祭の八処女[オトメ]は、芸妓もまんざら捨てたものでもないと思わせた。但し、それは昔ありし日の夢、もうそんないい芸妓は見かけない。

(後略)

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生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)。

申し訳ないが私は行ったことがないので、全く知らないのでここは「大阪今昔」におまかせしておく。
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「生玉[イクダマ]はん」
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 東京人には、

「三社様」

 であり

「山王様」「権現様」

 であるところを、大阪人には、

「生玉[イクダマ]はん」

 であり

「御霊[ゴリョウ]はん」「座摩[ザマ]はん」

 である。横丁の八百屋は「八百留はん」であり、宮殿下は「宮はん」である。そとは一視同仁であるが腹の中ではちゃんと区別がついている。そこが大阪である。

「秩父の宮はんと、同じ汽車やった」

 と、畳屋[タタミヤ]はんなみにいいながら、光栄の涙をボロボロながしているのが大阪人である。

 それはさておき、高津の坂を南に折れ、現在市電の通っている上六への道を少し上ると、南に生玉の北門を仰ぎ見る急坂がある。これが「摂津名所図絵」にも「浪華百景」にものこる真言坂である。

 生玉はんは「生国魂神社」として、現に官幣大社であるが、明治初年の廃仏毀釈までは宮寺[ミヤデラ]と称し生玉十坊という寺々がここにあった。いづれも真言宗の寺ばかりであったので、この坂を真言坂と呼んだのである。昔の生玉はんは、北門に十坊があり、東門(馬場先)に名高い遊所があって、賑った。

 先日筆者は、高津神社の境内で毒を呷って死ぬ女の話を書いて、聖地を汚すというような意味で某先輩から叱られた。皇居のあとでも、高き屋の跡でもない高津さんではあるが、やはり地名から来る神聖感からであろう。生玉さんの方は、近松の「生玉心中」「心中宵庚申」はじめ、半二の「お染久松」にも、情死の場面にしばしば使われている。それを逃げて、高津神社にしたのが、運の尽きであった。

 生玉馬場のさきの茶屋は、元禄以降の遊所として甚だ有名である。門前の「生玉の蓮池」をめぐって色茶屋、出合茶屋が立並び、てすり越しに池の面へ、ポンと投込まれる紙屑を、麩と間違えて突つく蓮池の鯉が、巧く描かれている画があった。何しろ、浄瑠璃になった心中では「曽根崎心中」が最初でも、その作者の近松門左衛門も「匁は氷の朔日」の中で

 世の中に絶えて心中なかりせば、三世の頼みもなかるよし、誰かりそめしこの契り、音に聞きくは生玉の、それが始めのだい市之進、つれて懇の名も高き、大和の国や三笠山笠屋三勝・・・

 とあり、生玉がどんなに遊所として早くから聞えていたか分る。

 しかし、これらの繁栄は文久年間に、すでにすっかり衰微していたことが、少年詩人田中金峰の「大阪繁昌詩」によって知ることが出来る。

 昔日は繁昌の生玉祠、今この地に遊びて却って相疑う、雀羅設けんと欲して粛粛甚だし、歓ずる事莫れ人間盛衰あるを・・・云々」

 そして、祖母に聞くとこの辺、茶屋、まんじゅう店、揚弓場、料理屋が立並び、繁昌大阪一であったが、「今は空しく寒鴉鳴く」と付記している。

 一面、馬場先の衰微に、一面、十坊の取払いとなって、維新当時ただ見る廃墟となったのを、明治四年五月、太政官達によって、官幣大社に列し、自今大祭を行わるる旨を定められ

 昔は春の立帰り、数十株の桜新たに神徳の光やわらげ、花下の通には貴賎太平を謳歌し、群参頓に夥しく、和楽相賑えり

 と、当時の大阪新聞に見える。昔から八重桜の名所であったところへ、更に増殖されたものであろう。そして北の造幣局、西の土佐稲荷、南の憲兵屯所とともに、大阪の桜の名所として、乏しい中に趣きをそえた。ことに篝火をたいての夜桜は、土佐稲荷とともに双絶であった。

 桜と共に、生玉の名物は前記の蓮池の蓮である。池畔に、小野お通、角澤検校、近松巣林、竹本義太夫、道喜重恭らを祀った浄瑠璃神社(先々代源太夫の寄進になった燈籠などのこっていて趣きがある)と、北向八幡宮がある。この地は、秀吉が天下静謐のため、却って弓矢八幡を北向に勧請したところが、珍らしい。

 その後、神社はやや復興したが、この蓮池の周囲は、大阪でも比びないほど汚い家が裏手を見せて、半ば朽ち曲りながら人が住んでいた。

 それが、去年の夏、七月九日、久しぶりの夏祭に参詣すると、蓮池のあたりから境内にかけて、それこそ公園のように整頓し、池の水は清冽に、緋鯉真鯉、蓮も美しく咲きさかって、びっくりした。が、さてそうなると、あの見るもいぶせき一群のあばら屋と、夏来て見ても枯れたような蓮の茎根さえ、もう一度そこに置いて見たい旧懐にたえ
かねた。追回の情は、美醜を超越してなつかしく迫るものである。

 殊に筆者の、もっとも印象にのこる生玉界隈は、明治四十五年一月、南の大火の延長で一触されたあとの、荒蕪の極の姿である。その、一望の砂河原のような生玉はんの境内に、赤く焼けさびたような金網の中に、もう鶴はいなかった。が、火事の前に見た鶴が、やはりその焼けた金網の中にいたような、錯覚がある。今橋の鴻池の庭に、庭男の持つホースから、水を浴びながら、純白の翼を陽にかがやかせていた美しい鶴と、生玉はんの痩せて薄黝く、老衰した鶴の悲しげな瞳の色と、二羽の鶴を忘れない。
病みほうけた禿鶴へ、夕陽が、いっぱいにあたっていたのを忘れない。悲しい鶴の姿であった。

(後略)

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この文にもある通り、明治45年に消失した社殿は大正2年に再建されている。大正橋で写真が大正4年以降だと判明しているが、これでも明治年間のものではないとわかる。
その後第2次世界対戦の大阪空襲で焼けている(昭和20年)ことから、ここにある社殿は30数年しかなかったので、その意味ではこの写真は貴重だと言えるかもしれない。

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